甘い罠、秘密にキス
「大変な環境で育ったのに、よく曲がらなかったね。むしろ誰よりも真っ直ぐで、本当に尊敬する」
「ガキの頃はだいぶひねくれてたけどな。てか伊織の家族がいなかったら、多分ダメな方向に進んでたと思う。そういう面でも伊織には感謝してる」
「何言ってんの。全部桜佑の力だよ」
婚姻届に視線を落とし、私の母と桜佑の父親の字で埋められた証人欄を見て自然と笑みが零れる。
あとは私達が記入してしまえば、婚姻届は完成する。そう思うと、急にワクワクというかソワソワというか、嬉しいけど落ち着かない、そんな気持ちになった。
「あとは入籍する日を決めなくちゃね…」
言葉にした瞬間じわじわと実感が湧いてきて、何だかくすぐったくなったけれど、ふとある事を思い出して「あ」と声が出た。
突然真顔になった私を見て、桜佑が「どうした?」と首を傾げる。
「そういえば桜佑って、本社に戻るの?」
躊躇なく放つと、桜佑の目が大きく開いた。
「田村リーダーが戻ってくるって噂を聞いたんだけど、そうなると桜佑は…」
途端に怖くなって、尻すぼみになる。数秒前まで浮かれていたのに、一気に現実に引き戻された気分だ。
「あー、そのこと知ってたんだ」
「うん…今朝大沢くんから聞いて…」
「あの野郎」
ほんとお喋りだな、あいつ。溜息混じりに放つ桜佑を見て、不安が増した。きっと桜佑は、敢えてこのことを私に黙っていたのだ。てことは、絶対に私達にとって良くない件で…
「田村リーダーは確かに戻ってくるけど、俺はまだ本社には戻らない」
「……え?」
「田村リーダーから、部署を異動したいと申し出があったらしい」
「異動…?」
思わずキョトンとしていると、桜佑は私の間抜けな顔を見てフッと吹き出すように笑い、続けて口を開いた。
「当面の間は、引き続き俺に任せたいって」
「そ、そうなの…?」
「田村リーダーが戻る話は少し前に聞いてたんだけど、その時はまだ田村リーダーがどの部署に配属されるか決まってなかったから、敢えて伊織には伝えてなかった。今みたいに、伊織が変に不安になるとダメだと思って」
さすが桜佑。私のことをよく分かっていらっしゃる。
拍子抜けしたのか、目をぱちぱちと瞬きさせながら桜佑を見つめていると、伸びてきた手が私の頭を優しく撫でた。
「いつかは戻る予定だけど、まだこっちで残ってる仕事もあるしな。本社に戻る頃には、俺らはもう夫婦になってんじゃね?」
「ふーふ…」
「日向 伊織。うん、悪くない」