結婚しないために婚約したのに、契約相手に懐かれた件について。〜契約満了後は速やかに婚約破棄願います〜
 出て行った息子の姿が、かつて出て行った妻の姿と重なる。

『あなたには、一生理解できないでしょうね』

 妻との関係はシルヴィアが生まれた時にはもう、修復のしようがないほどに亀裂が入っていた。

『もう、嫌っ! もう、うんざりよ。私は出て行くわ』

 彼女が何をしても全部目を瞑ってやったのに、彼女はその度に不機嫌になっていき、そして最後は駆け落ち同然で使用人だった男と出ていきそのまま馬車の事故で亡くなった。

「……どうして、分かってくれないんだ。リゼ」

 妻が愛してくれなくても、ルシファーはずっと彼女を愛していた。いくら周りに再婚を勧められても後妻を取らずにいるほどに。
 そのつぶやきに答える声はなく、ため息をついたルシファーは淡々と書類に目を向けるが内容はろくに頭に入ってこない。
 ふと視線を上げた先で妻の写真が目に入り、あの日乗り込んできた彼女の言葉が蘇る。

『私、幽霊って会った事ないんですよねぇ』

 自分を売り込みに来たアクアマリンの瞳は、無遠慮に他人のプライベートに上がり込んで来てそう言った。

『死んだ人間からの言葉かけなんて、あるわけがないではありませんか。もし聞こえるのだとしたら、それは全部あなたが生み出した幻想です」

 責める言葉も、未練も、後悔も、それは全部生きている人間の内側にあるものですと、生意気に説教じみた言葉を紡ぐ彼女は、

『最後の条件です。写真を眺めて悔いる時間があるなら、生きている人間(あなたの家族)と向き合う時間に回してください。生きている人間にとって時間は等しく有限ですよ』

 これはあくまでお願いです、と言った。
 彼女、ベル・ストラルの主張がルシファーには理解できなかった。
 それを自分がしたとして、この女に一体何のメリットがと訝しむ視線を受け流したベルは、

『思っているだけで伝わるなら、誰も苦労はしませんよ』

 そう言い残し書面を手に取り出て行った。

*****

 その噂は、王都からほど近いブルーノ公爵領にいるルシファーの耳にも届いていた。

『氷の貴公子が海の向こうのお姫様と恋に落ちた』

 と。それは密かに、だが急速に社交界に広まった秘めた恋の物語。
 今までどんな貴族令嬢をあてがっても、女嫌いのルキが靡いたことはなく、その原因の一旦は自分にもあると思っていたルシファーは噂の真意を確かめるために今回夜会への出席を決めた。
 だが、王城で久しぶりに会う息子を見て、正直目を疑った。
 あれほど女性に近づかれることを嫌がっていたルキが、穏やかに相手に笑いかけ、彼女をリードし、気遣っている様子が見られたからだ。
 その上シルヴィアから女主人を迎え入れるよう提案があった。茶会で仲良くしていたという報告も入っているし、シルヴィアのつけている髪飾りとエステルのつけているものは似ているデザインで、どちらもルキが贈ったものだという。
 並んでいる様は仲のいい姉妹のようにも見えた。王族であれば公爵家としても釣り合いがとれ申し分ない。
 ナジェリー王国側の使者とルキの上司であるケインズ侯爵からエステル王女との縁談を勧められた時は迷いもあったが、ルキが心を決めたのならこちらから言う事はなにもない。

「ルキは、ようやく伴侶を決めたのか」

 重い肩の荷が降りた心地でルシファーはつぶやくと、視線を手元の資料に落とす。

「なら、親として邪魔な障害物はどけてやらねばならないな」

 そこにあるのはベル・ストラル伯爵令嬢の素行調査の結果だった。
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