結婚しないために婚約したのに、契約相手に懐かれた件について。〜契約満了後は速やかに婚約破棄願います〜
 ベルがドアを開けるとチリンと鈴の音が鳴り、鼻腔をくすぐるコーヒーの香りがする。
 平日のランチタイムとカフェタイムの間のその時間は人もまばらでベルがいつも利用するカウンター席も空いていた。

「いらっしゃい、ベルちゃん」

「マスター」

 マスターと呼ばれた妙齢の女性はベルが言葉を紡ぐ前に上を指差す。
 ベルの目的の人物はもう来ているらしい。

「すみません、いつも都合つけてもらって」

「いいのよ、お得意様だもの」

 マスターはふふっと笑ってベルに淹れたてのコーヒーを渡す。
 ベルはお礼をいって支払いながら、

「コーヒー豆買って帰っていい? マスターのオリジナルブレンド」

 と追加注文をする。

「この前も買って行かなかった?」

「気に入ったみたいで、よく飲んでるから」

 ベルは自分の部屋に訪れるルキがコーヒーを飲んだとき浮かべるほっとしたような表情を思い出し、クスッと笑う。
 そんなベルを見て、マスターは了承を告げながら、

「ベルちゃん、いい顔するようになったよね」

 という。

「ええ?」

「なんって言うか、こー表情が豊かになった。前はもっと眉間に皺寄せながら必死に机に齧りついてたじゃない? 勉強でも、企画書立てる時でも」

「……そう、だっけ?」

 特に何かを変えた覚えはないのだが、と首を傾げるベルに、

「今度彼氏さんも連れてきてよ。美味しいコーヒー淹れるから」

 マスターは楽しげに声をかける。

「……彼氏じゃないんだけどねぇ」

 ルキの顔を思い浮かべ、ベルは苦笑する。ルキとはそんな甘い関係ではなく、どちらかといえば手のかかる厄介な相手なんだが。

「でも、今度連れてくるわ。マスターの淹れたてコーヒー奢る約束したし」

 余計なお節介だと自覚した上で、それでも放って置けないと思うくらいには、気がかりな相手になっていた。


 ベルの待ち合わせ相手は、とても上品にコーヒーを飲んで、

「ルキがおかしい?」

 ベルの報告を静かに聞き返した。

「そう、しかも多分本人無自覚」

 多分、知らないうちに何かしらの地雷を踏んでしまったのだろう、とベルはため息をつく。

「まるで捨てられるのを怖がる小さな子どもみたい。"いい子でいなきゃ"っていう強迫観念で動いているように私には見える」

 このままいけば多分どこかで無理が来る。そう言うベルの話を聞いて微笑む老紳士は、

「ベルちゃんは、本当にヒトをよく見てるね」

 と目を細めてそう言った。
 ベルは向かいに座る老紳士をじっと見る。一般庶民の生活エリアに合わせて地味な服を着ているが、気品の良さは隠しきれていない。
 ひとつひとつの動作が綺麗で、コーヒーを飲む姿すら絵になるあたり、ルキによく似ている。

「だから"私"を婚約者に指名したんでしょ。ルキ様が安全に予行練習できるように」

 相変わらず煮ても焼いても食えないヒトだと思いながら、ベルはコーヒーに口をつける。

「ヤダなぁ〜ベルちゃん。私はずーっとベルちゃんが小さい時からうちの孫のお嫁さんにおいでって言ってたじゃないか!」

「どーだか」

 おどけて見せるその人、ルキとシルヴィアの祖父であり、ルキの爵位継承にストラル伯爵家との婚約なんて状況を作り出した張本人、ヴィンセント・ブルーノ前公爵にベルは肩をすくめる。

「ハルはともかく、私は本当にストラル前伯爵の……貴族の血を引いているかも怪しいのに」

 似ていないのだ、血の繋がっているらしい父の生き写しだと言う兄に微塵も。
 生前母の口から父親について語られる事はなく、自分と似ていない弟と本当に血がつながっているのだろうかと何度か疑った事がある。
 それでも母が自分達を分け隔てなく扱ってくれていたからベルにとって血のつながりなど些細なことでしかなかった。
 母が亡くなった後に自分達の身柄を引き取りにきた兄の容姿が弟とそっくりで先代ストラル伯爵の血を引いているのだと知るまでは。

「大方、私で女性の扱いを練習させてルキ様に女性への苦手意識を直させた後、きちんとしたお嬢様と縁組する気なんでしょうけど。でも、ちょっと酔狂過ぎない? 一時的とは言え、あんな生粋のサラブレッドにこんな雑種あてがうなんて」

 いくら今までずっと貴族令嬢達との縁組が上手くいかなかったからって、荒療治にも程があるとベルはため息交じりにそう言った。
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