バカの傘
「お姉さん!」
後ろから声がして振り返ると、そこには自転車に乗った学ラン姿の男子生徒がいた。
「なに?」
私は、中学生だろうその男子生徒を、怪しい者を見るかのように見上げた。
見たことのある顔だ。
朝の通勤時、家からバス停までの道を歩く時、『おはようございます』と挨拶をしながら、私を自転車で追い越していく男子生徒だ。
まだ幼さが残る優しい顔をしたその中学生は、変声期を終えているようで、見た目とは違う低い大人の声をしていた。
「もし良かったら、この傘を使って下さい! こんなひどい傘でも雨は凌げるから!」
透明のビニール傘を、申し訳なさそうに私の頭上に差し出してきた。
開いたまま差し出されたそれによって、私の雨祭り、なりきりヒロインごっこは強制的にストップさせられる。
普段なら、私はそんな親切は丁重にお断りするところだが、見上げた傘に驚いて拒否が出来なかった。
そのビニール傘には、黒い油性ペンでいくつかの『バカ』の文字が書かれてあったのだ。
私に傘を差し出しているため、彼の頭から身体は雨に濡れ始めた。
その顔が濡れているのは、泣いているからか、雨のせいなのか、どっちだろう。
ただ私には、彼の全身から悲しみの色が滲み出ているようで、そのバカの傘を、
『いりません』なんて言って突き返すことはできなかった。
「……ありがとう」
私は彼から、そのバカの傘を受け取った。
「でも、こんな傘でも、ないとキミ濡れちゃうけどいいの?」
こんな傘、と、口から滑り出た言葉に申し訳なくなる。
彼は、少し悲しげに微笑んだ。
「僕自転車だし、家すぐそこなんで大丈夫です! もらってくれてありがとう! あとそれ、使ったら捨ててもらっていいですから……!」
そう言い放ち、自転車を走らせ去っていった。
私はそこに一人、バカの傘をさして取り残された。
これは罰ゲームなのだろうか……。
でも彼は『こんな傘でも雨が凌げる』と言っていた。
ということは、きっと親切なのだろう。
私は雨に濡れて帰ることを諦めた。
そのバカの傘を置き去りにすることはできず、そのままそれと一緒に家路を歩いた。
あの悲しそうな男子生徒の姿が目に焼き付いて、いつまでも離れなかった。