あなたの部屋で
婚約指輪って、なんなんだろうね。
 「…どなた?」
 「あ、これ?山田。」
 「そう…山田…くん。」
 「あ、山田です。」
 スーパーマーケットのビニール袋をそれぞれ両手にぶら下げて帰って来た私と山田は、ビルの入り口で、どこかへ行こうとしていた手塚さんとばったり会った。
 「…買い物?」
 と手塚さんが聞いた。
 「うん。プラム酒でも作ろうと思って。」
 「…そう。」
 「あ、すももね。」
 「え?」
 「プラム。」
 「あ、うん…。」
 すると山田が言った。
 「あ、あの。違いますから。道で偶然会って、手伝わされてるだけです、僕。」

 それから二時間後、私と山田は手塚さんの部屋に居た。
 「…なぜ俺に?」
 「うーん。どうにかならないかな、と思って。」
 「すみません、僕のことで、お仕事中に。別にいいって言ったんですけど。」
 手塚さんを取り囲む私と山田を交互に眺め、
 「ああ、いえ…まあ、いつものことなんで。構いませんよ。」
 と立ち上がった手塚さんは、とりあえずそっちに移動してもらっても?とソファを指差した。ソファに三人は座れないので、手塚さんはデスクチェアを転がして来た。
 「良かった。じゃあ、山田、さっきの話、もう一回手塚さんにしてみて。」
 ソファを陣取った私は、隣の山田を肘で小突いた。
 「あ、うん…。」
 山田は、黙ったまま山田の言葉を待つ手塚さんをチラチラ見ては、ええと、その、と何と話せばいいのか迷っているようだった。
 「…コーヒー、飲みます?」
 そんな山田を見て、手塚さんは言った。
 「え?あ、ありがとうございます…。」
 ちょっと待って、と手塚さんは席を立つと、三人分のコーヒーカップを持って来てくれた。
 「すみません、いただきます。」
 山田はコーヒーを飲むと、あ、美味しいです、とぺこりと頭を下げ、
 「…先週末の、ことなんですけど。」
 と話し出した。


 小学校、中学校と私の同級生だった山田には、婚約者がいる。何度かプロポーズしてやっと婚約指輪を受け取ってもらえたそうだ。今、相談しているところだけれど、来年中には式も挙げようと思っている、と言う。先週末も山田の家に彼女が遊びに来ていて、いろいろと相談していたのだそうだ。そんな時間がすごく幸せで、と山田は言った。その時も話し込んでいるうちに夜になり、そろそろ帰ると彼女が言うので、山田は駅まで彼女を送って行った。
 そんな駅までの道で、山田は彼女とケンカになった。今思うと、何てことないわがままだったと思うんだけど、と山田は言った。結婚指輪はすでに発注してあったのだが、彼女が突然、おじいちゃんとおばあちゃんの形見の結婚指輪を鋳直して、自分たちの結婚指輪にしたい、と言い出したのだそうだ。もう発注してあるから、と言ったのだが、じゃあキャンセルして、と彼女は言う。山田もつい、君が選んだものだよね、と強い口調で言ってしまったのだそうだ。それで言い合いとなり、彼女は走って行ってしまった。
 勝手にすればいい、と山田も意地になっていたのだが、すぐに思い直し、彼女を追った。最初にすぐ近くの角を曲がったのは見ていた。それでそちらへ走って行った。そこを曲がると、突き当りは川の堤防になる。そこまで行くと、左右に堤防沿いの細い道が続いている。ところどころ、堤防内の遊歩道へ入れる階段がある。どちらへ行ったんだろうと辺りを見回すと、少し先にある階段を、人が下りて来るのが見えた。彼女を見なかったか聞こうと思い、山田はその階段へ向かった。
 階段から下りてきたのは、ふたりのおばちゃんだった。山田はおばちゃんたちが下りて来るまで待ち、こんな女性を見ませんでしたか?とスマートフォンの画像を見せながら聞くと、ああ、見ましたよ、なんか泣いてたみたいだったけど、とおばちゃんたちは答えた。どっちに行きました?と聞くと、えっと、どっちだっけ、ほらあっち、そうよね、海の方に走って行きましたよ、とふたりは言い、それから、山田を見て気の毒そうな顔をした。それで、あの、彼女どうかしたんですか、と聞いてみた。
 おばちゃんたちは、ドラマのロケ地巡りをしていたのだそうだ。この川沿いの遊歩道はたびたびドラマや映画の撮影で使われることがあるんだけれど、つい最近やっていた連続ドラマでも使われていたらしく、彼女らはそのドラマのファンだということだった。持参した画像を見ながら遊歩道で、主人公が立っていたのはこの辺よね、と話していたところ、階段を駆け下りて来る山田の彼女が目に入った。彼女は目元をぬぐい、泣いているように見えた。遊歩道に出るとまた走り出したが、その途中、ベンチのあたりで彼女はつまづいてしゃがみ込んでしまった。驚いて、助けようと近づくと、彼女が左手から指輪を抜いて、目の前の植え込みに投げつけるのを見た。それから彼女は立ち上がると、再び走って行ってしまった。
 ドラマにも似たようなシーンがあったので、もうびっくりしちゃって。おばちゃんたちそんなふうに言っていたのだそうだ。


 「…でも、今思うと、どうしてそれくらいのわがまま聞いてあげられなかったんだろう、って。キャンセル料はかかりますけど、彼女を失うくらいなら、全財産を失ったっていいのに。」
 山田は鼻をすすった。
 「…全財産は。どうでしょう。」
 そんな手塚さんのつぶやきは、山田には届かなかったようだ。
 「それで、彼女に謝ろうと思って…改めて指輪を受け取ってもらいたいと思って、彼女が投げ捨てた婚約指輪、探しに行ったんです。」
 「見つかったんですか?」
 山田は首を振った。
 「見つからなくて…。もう誰かに拾われたのかな。」
 手塚さんは背もたれに身体を預け、腕組みをした。
 「あの遊歩道ですよね。」
 「はい…。」
 「そこの川沿いの。」
 「あ、そうです。」
 「あのあたりの植え込みは、それほど手入れされてるようにも見えないし。あんなところ、誰も見ないでしょう。」
 「でも本当に見つからないんです。隅々まで探したんですけど。」
 山田はうなだれた。
 「その、目撃者のおばちゃんたちが持って行っちゃったんじゃ?」
 私はそう山田に聞いてみたけど、
 「それはまあ、俺も考えたよ。今となっては確かめようもないけど。」
 という山田の言葉に、頷くしかなかった。すると手塚さんが言った。
 「でも可能性としては低いですね。自分たちが盗ったのなら、指輪の話はしないでしょう。それに友人同士でいるときに、なかなか一緒に盗みを働こうとはしないと思います。あとで仲直りして取りに来るかも知れないから、そのままにしときましょ、っていうのが一番ありそうな流れですね。」
 手塚さんのそんな言葉に、山田は激しく頷いていた。
 「ええ…。あの人たちの話を聞いた感じとして、嘘ついてるようにも思えなかったし、指輪を盗って喜んでいるようにも見えなかったんです。」
 なるほど、と手塚さんも頷いた。
 「ドラマ好きな人たちですし。そんなドラマチックなシーンを目の当たりにして、無粋な真似はしないのでは。」
 「そうであってほしいんですが…。」

 その夜、「気になってるだろうから、三階に集合。」と手塚さんからLINEが入り、私は階下へ向かった。それで私たちは散歩がてら、川に行ってみた。
 「まだ蒸し暑いね。」
 「だな。」
 こんな思いがけない夜の散歩に、浮かれているのは私だけだろうか。手塚さんのオーバーサイズの白いTシャツが、月明かりの下でも眩しかった。
 「でも。」
 「え?」
 「風が吹けば少しは涼しいな。」
 手塚さんのそんな言葉に、うん、と答える。それはほんの数分の出来事だったかも知れないけど、なぜ私はこんなにも満たされてしまうのだろう。
 「…ここの階段から入って、海側に走って行ったと。」
 遊歩道へ入る階段を上り切ると、開けた視界の中、大きな川がゆったりと流れて行くのが見える。私にとっては懐かしい光景だった。そう言えばこの家に戻って来てから、まだ一度も川に来てなかったな。海の匂いの混じる夜の風を、私は思い切り吸い込んだ。
 「ベンチのあたりで投げ捨てた、って言ってたから、まあ、この植え込みを指しているはずだよね。」
 山田の話を元に特定したその生い茂った植え込みの中をスマートフォンのライトで照らしてみたけど、それらしいものはなかった。だいぶ踏み荒らした跡があった。山田がやったものだろう。
 「結構奥の方まで掘り返してるね。」
 「文字通り、隅々まで探したんだろう。」
 「こんなところ、わざわざ入らないよね。」
 植え込みって、基本見るものだ。入るものじゃない。
 「そのおばちゃんたち以外はね。」
 手塚さんは尚もあちこちをライトで照らしながら、そんなことを言った。
 「おばちゃんたちを疑ってるの?」
 「いや、それはないんじゃないかな。」
 そう言って手塚さんはライトを消した。
 「じゃあ誰が?…あ、川沿いのマンションから見ていた人がいるとか!?」
 うーん、と辺りを見回した彼は、
 「こっち岸のベンチのあたりは、堤防を超えるほどの建物ないし、川の向こう側のマンションから見ていたとしても、小さくて見えないでしょ。川幅が二百メートル近くある。」
 と向こう岸を指差して言った。
 「確かに。」
 「夜だったし、ここは足元を照らすくらいのライトが飛び飛びにあるくらいだから。見えたとしても、指輪を投げ捨てたかどうかまでは分からないんじゃないかな。」
 「これね。雰囲気出すために、わざわざこういう、ぼーっとした灯りにしてるって聞いた。見えないか、これじゃ。」

 それから数日が経った。
 「山田、どうしてるかな。」
 今日も私は手塚さんの部屋に来ていた。
 「新しい指輪でもプレゼントしたんじゃない?」
 モニターの山から声だけが返って来た。
 「あの失くした指輪、大奮発して買ったらしいんだよ。もうたいしてお金も残ってなかったんじゃないかな。」
 「いかに高価であるかが愛に比例する、とか言わないでよ。」
 「言わないよ!そういうことじゃないけどさ。」
 私はテーブルの上に投げ出されていた町内会のカレンダーをぱらぱらめくると、また丸めてビニールのカバーに戻した。もうすでに半年過ぎているこのカレンダーだが、もしかしたら使うかなと思って持って来てみたのだ。要る?と手塚さんに聞くと、要らない、と言う。
 テレビの天気予報では、西から下り坂です、と傘マークの並んだ地図をキャスターが棒でつつき回していた。画面の左側から、ぐるぐると渦巻いた台風が迫ってきていた。
 「台風が近づいて来てるのか。週末まで不安定だって。…明日も雨か。しかも結構激しそうだね。」
 私がテレビに向かって文句を言っていると、
 「えー。一日中?」
 手塚さんも不満そうに言った。
 「みたいだね。」
 「俺、客先に行かないとならないんだよな。」
 そう言って顔を上げた手塚さんは、ん、と言ってテレビ画面をじっと見つめたまま動かなくなった。
 「何?」
 「台風か…なるほど…。」
 「ん?」
 そして立ち上がると私のところに来て、さっきのカレンダー見せてくれ、と言った。
 「要らないんじゃないの?」
 「え?ああ、要らないよ。」
 と言いながら彼は、丸まったカレンダーを広げると、ぺらぺらとめくり、そして言った。
 「そういうことか。」
 「何が?」
 手塚さんは私の問いには答えず、モニターの山に戻るとキーボードを叩き、何かを調べているようだった。それから
 「大家さん、金曜の夜、ヒマ?」
 と言った。
 「曜日っていう概念がないくらいヒマだけど。」
 「だろうね。じゃあ、七時くらいにここに集合。長袖にジーンズかなんか着て来て。あ、あれば軍手も。」

 「…ここ?また探すの?」
 私たちはまた遊歩道に来ていた。雨は昨日から断続的に降ったり止んだりを繰り返していたが、今のところ降りそうな様子はなかった。でもかなり蒸し暑く、こんな天気の中、ドロドロになった植え込みに立ち入ることを考えただけでもげんなりした。えー、と不満がダダ洩れの私に、
 「いや、そこじゃない。」
 と言って手塚さんは、山田が言っていたベンチとは反対方向に歩き出した。
 「え、でも…。」
 私は慌てて彼を追った。
 この川沿いの遊歩道には、ところどころにベンチが置いてある。反対方向に進んで、最初のベンチの横にある植え込みに手塚さんは入って行った。もう片っ端から探す作戦にしたんだろうか。そこには背の高い椿が固まって生えていて、下にも雑草が生い茂っていた。ああ、やっぱりしらみつぶしに当たる作戦か、何時までかかるかな、と私はちょっとうんざりした。ここから、見える範囲だけでも…二キロはある。そこに一体何か所の植え込みがある?ここから駅に近い階段まででいいんじゃないかなあ。それでも…結構あるな。このあたりの植え込みは、近隣の町内会が管理しているって聞いたことがある。きれいに刈り込んでいるところもあれば、こんな都心にジャングルが?と思うような荒れた植え込みもあるのは、町内会によって手入れに力の入れようが違うからなのだそうだ。ああ、そんなところに入るのは嫌だなあ、虫もいるかも知れないし。山田のためとはいえ…。
 椿の間に体を半分ねじ込むようにしてライトで中を照らしていた手塚さんが言った。
 「あった。」
 「…何が?」
 聞き返した私に、はあ?と肩をすくめ、
 「何がって。決まってるだろ。これだよ。」
 と彼は、まだ真っ白なままの軍手をはめた私の手に、泥のついた指輪を乗せた。


 私たちは、並んで川を眺めていた。
 「あの日も、川はこんなふうに流れてたはず。」
 「こんなふうって?」
 いつもと変わらないように見えた。
 「良く見て。」
 手塚さんは川を眺めたまま、気持ちよさそうに風に吹かれている。
 「うーん…。なんだろう、ちょっと水が多い?」
 山の方でも雨が降っていたのだろう。そんな時は遊歩道の低い場所に水が溢れて来るほど、こうして水が増えることがある。
 「まあそれもあるけど。」
 「え、他に何かある?いつもと違うところなんて…」
 と答えたその時に、私も気づいた。
 「いや、ちょっと待って。…これさ、」
 「お。」
 「逆に流れてる?」
 「そう。逆に流れてる。」
 そう言って手塚さんは、手すりに両手をついてもたれかかった。
 「な、なんで?」
 大家さん、地元の人でしょ、と笑って手塚さんは言った。
 「正確には、逆に流れているように見える。海からの風の強さによってはこんなふうに、海から山側に水が流れているように見える日があるんだ。表面的にはね。それに、潮の満ち引きの関係で実際に逆流することもあると思う。ここは河口に近いから。」
 ようやく彼の言わんとしていることが分かった。
 「…ってことは。」
 「これを見ておばちゃんたちは、あっちが海だと思ったんだ。ロケ地巡りで来た初めての場所だったから、土地勘はなかったんだろう。つまり、山田くんの婚約者が走って行ったのは海側じゃない。逆の方向だったんだよ。」


 「…え?…え、ええ!?ど、どうして!?」
 翌日、指輪を渡すと山田は驚きのあまり、受け取る手がぶるぶると震えていた。それで顛末を話すと、見開いた山田の目に、みるみる涙があふれた。
 「あ…がと…。」
 言葉にならないまま、何度も頭を下げて山田は帰って行った。
 「潮の満ち引きは、町内会のカレンダーに印があった。昔はこのあたりも、漁をしていた人が多かったんじゃないかな。金曜は、大潮だったそうだ。それに台風もすぐそこに来てた。」
 「なるほど。近くに住んでたのに、考えたことなかった。」
 あの指輪、山田の彼女はまた受け取ってくれるだろうか。
 「仲直り、出来るかな。」
 そう呟いた私に、
 「さあね。それはわからない。」
 と手塚さんは興味なさそうに言った。
 「指輪を持って行ってもだめかな。」
 「元はと言えば、山田くんが彼女を怒らせたんだろ?指輪を投げ捨てられるほど。」
 「…まあ、そうだよね。」
 「それに対してどう謝るか、ってことだろう。指輪見つけたよ、じゃなくてさ。それに、指輪見つけたの、俺だし。」
 「う、それは秘密にしておいた方が良さそうだね。」
 冷めてしまったコーヒーを一口飲んで、手塚さんは言った。
 「まあ、大丈夫だろ。こんなドラマチックなケンカしているうちは。」
 それから手塚さんは、じゃあ俺仕事するから、とたくさんのモニターに囲まれた定位置に座りヘッドセットを被ると、キーボードを叩き始めた。私はテーブルに残された、山田のカップをキッチンに運んで洗った。そしてまた、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
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