あなたの部屋で
犬派か、猫派か。
 「うちのビルと違ってオシャレな建物だな。」
 うちの近所に出来たマンションを見て、手塚さんが失礼なことを言った。このあたりは再開発が起きそうで起きない、まだ古い街並みの残るしけった灰色の地域なのに、このマンションだけは今どき過ぎて浮いている。田舎にやってきた都会の転校生みたいだ。
 「…ここねえ、最近空き巣あったみたいよ。犯人まだ捕まってないみたい。目立つからねえ、狙われちゃうんじゃないかな。オシャレっていってもねえ、セキュリティなんかどうなってるのかねえ。」
 嫌だ嫌だ、と首を振りながら私がそう言うと、
 「そんなこと言ってるけどな、うちのビルも気をつけた方がいいぞ。昼間は下の会社で出入りがあるけど、こないだ間違えて俺の部屋に来たやつがいた。下に用事があったみたいだけど。つまり簡単に誰でも入れるってことだぞ。」
 どんだけ上からなのさ、と手塚さんが笑った。
 「うちのビルが建った時は、セキュリティって概念がなかったんだよ。」
 少し秋めいてきた夕方、私たちは駅の近くに出来たレストランに向かっていた。
 山田から連絡があったのは一昨日のことだ。

 「え?いいの?」
 「うん。是非。」
 あのあと山田は、無事婚約者と仲直りしたらしい。どうしても手塚さんにお礼がしたい、と言って電話をかけて来た。そして、レストランのディナーを予約した、支払いも済んでいるから、手塚さんとふたりで行って来て、と言う。
 「山田は来ないの?彼女も連れてくればいいじゃん。」
 「まあまあ。これはお前へのお礼でもある。」
 「…は?」
 「頑張れよ。」
 そう言って山田は電話を切った。
 それで手塚さんに聞いてみると、
 「山田くんが?そうなんだ。そんなに気を使ってくれなくてもいいのに。」
 と仕事の手を休めることなく言った。行きたくないのかな、と思って、
 「…どうする?やめとく?」
 と聞いてみると、ん?と彼はモニターの山から出て来て、ソファに居る私の隣に座った。
 「そうだなあ。…うん、じゃあごちそうになろうかな。あの駅前に出来たところでしょ。大家さん行きたがってたし。」
 私の顔を覗き込み、そう言ってくれた。

 手塚さんは、きちんとしたグレーのパンツに白のシャツを着て来た。私はワンピースを着て行った。こんなシチュエーションに喜んでしまっている自分が心底情けない。でも、山田、ありがとう。お店の人が、承っております、とを持って来てくれたシャンパンで、私たちは乾杯した。山田、いつの間にこんなことが出来るようになったんだ?ハンドボール部でくすぶっていた山田に、何があった?
 「うん、美味い。」
 「うん、ほんと。」
 手塚さんも楽しそうで、良かった。
 ここのレストランは先月くらいにオープンしたイタリアンで、地元の友達がおすすめしていたこともあり、行ってみたいと思っていたところだった。山田はコースで頼んでいてくれたらしく、私たちは前菜やメインを選んで、美味しい料理を楽しんだ。
 デザートに私はチョコレートケーキ、手塚さんはレモンのシャーベットを食べていたときだ。店のドアが開き、白のジャケットを着た四十代くらいの男の人が入ってきた。二十代かなと思うような若い女の子も一緒だった。彼らは私たちの席の後方に座ると、大きめの声で、いくつかの料理と赤ワインのボトルを頼んだ。それから何やらふたりで話して笑っていたが、男性が、あ、ちょっと待ってと言うと、
 「あ、僕です、はいはい、どうもどうも!…ああ、行って来ましたよー、宮古島!」
 と誰かに向かって話し始めた。私がそっと振り向くと、
 「電話。」
 と手塚さんが言った。
 「え?」
 「電話してるんだよ。」
 「あ、ああ。そうか。誰か来たのかと思った。」
 そう言う私に、自分の耳をトントンと指で叩いて、ワイヤレスのイヤフォンだよ、と言った。
 「そっか。うん。手塚さんも持ってるよね。」
 「持ってるけど、俺はところ構わず使ったりしない。」
 と言った。
 「ふうん。…最初は何か、手塚さんもああいうイメージだったけどね。」
 「どういうイメージ?」
 「いつも仕事に追われてます、みたいな。あー、もう俺忙しいわー、みたいな。」
 「なんだそれ。」
 「今はまあ、違うけど。」
 私がそう言うと、手塚さんは、そんなこと思ってたんだ、と笑った。
 「そう言えば、手塚さんってどんな仕事してるの?」
 ふと聞いてみた。入居の申込書には、自営業、としか書いていなかった。
 「俺?うーん、名刺には一応、ネットワークエンジニア、って書いてある。」
 「ネットワークエンジニア?」
 「主に、インフラの構築と保守を請け負ってる。」
 「…へえ。」
 「俺はネットワークとかその辺を専門にしてて、基本はひとりで仕事を請け負ってるんだけど、他にも各分野を専門にしてるヤツと一緒に仕事することもある。」
 「そうなんだ。」
 「窓口になってる人がいて、個人事業主の集団みたいなものを組織してる。案件によっては何人かで仕事することもあるよ。単に仕事を融通し合うだけのときもあるし。」
 「そうなんだ。知らなかった。」
 「うん。まあ、すごく緩やかな集団だから。ひとりで仕事してるように見えると思うけど。」
 「手塚さんみたいな人ばっかりの集まりなんだ。」
 「俺みたいっていうのがどういう意味か知らんが、形態としては俺みたいな人ばっかりだよ。」
 「ふうん。」
 そのメンバーに女性もいるのかどうか、何となく聞けなかった。

 そのレストランでの二時間ほどは、本当に楽しい時間だった。良く良く考えると、山田の指輪の件に関して私はほとんど何もしていないのに、いや、それどころか山田に荷物を運ばせただけだった気もするけど、こんな時間を用意してくれた山田に心から感謝した。
 手塚さんは何も変わらなかったけど私は少しだけ酔っていて、何だかいい雰囲気(と思っていたのは私だけかも知れないけど)の帰り道のことだ。後ろの方から大声で話している人が近づいてきて、私はまた振り返ってしまった。その大声は段々近づいて来て、そして私たちを追い越して行った。
 「盛大にひとりごと言ってるね。」
 「いや、だから電話中だろ。」
 「ああ、そっか。」
 その人は周りに会話を聞かれるのを厭わないのか、いや、むしろ聞いてくれと言っているくらいの音量で話していたので、私たちには喋っている内容が全部聞こえていた。すれ違うときにさり気なくその人を見てみた。見覚えがあった。もう何年も会ってない人だったけど、あれは確か、酒屋さんの息子さんだ、と思った。え?犬?…ええ…飼ってます、ええ…ああ、そうなんです、私、犬派なんで、そんな話をしていたのが丸聞こえだった。
 「さっきのレストランでもそうだったけど。」
 酒屋さんの息子さんが通り過ぎてから、手塚さんが言った。
 「こういう人たちの会話は、まず中身がない。聞かれても困らない話なわけだから。」
 「まあね。」
 「…ええ、俺、犬派なんで、って。」
 手塚さんが、首を振りながら言った。
 「ほんとだよねえ?しかもあの人、猫派なんだよ?」
 と私は言った。
 「…猫派?」
 「うん。あれ、酒屋さんの息子さんなんだけど。今は三匹かな。昔から常に何匹か猫がいる家だよ。完全な猫派じゃんねえ?犬は飼ってたかな?あそこのおばあちゃんが犬は苦手だって聞いた気がするんだけど。」
 「猫派…。」
 そう言って、手塚さんは立ち止まった。うん、そうだけど、と私は返事をしたけど、聞いていないようだった。少しして、手塚さんが言った。
 「大家さん、ちょっと遠回りして行こう。」


 「…ここ?」
 「うん。適当に話、合わせてくれ。…あ、どうも、すみませーん。」
 「え?あ、ちょ、ちょっと。」
 そう言って手塚さんが入って行ったのは、近所の交番だった。
 「どうされました?」
 交番に入ってきた私たちを見て、お巡りさんが言った。
 「うーん…。見間違いかなー、いや、まさかなー。」
 手塚さんは腕を組んで、うーん、と唸っている。
 「うん?何かありました?」
 手塚さんが何を始めたのかと、私はびっくりして言葉も出なかった。この人、こう見えて泥酔してる?全くの素面にしか見えないんだけど、実は意識失ってるの?
 「…あの人を見かけたような気がするなー。」
 「はい?」
 「…うちの二軒隣のマンション?はい、あの新しいところ。三丁目の。最近空き巣が入りましたよね?あの酒屋さんの息子さんを見たような気が…。すみませんね、なんか気になっちゃって。お巡りさんに話してみようかなって。でも違ってたら悪いなって…。ええ、その日です。いや、何となく似た人を見ただけかも知れないんですが。」


 「…え!捕まったの!?」
 二日後、私はまた手塚さんの部屋に居た。
 「うん。捕まったみたいだよ。」
 「酒屋さんの息子さん!?」
 「そう。」
 「いやいやいや…ええ!?」
 「ははは。」
 「いや…はははじゃなくてさ。どういうこと!?」
 昨日、あの交番のお巡りさんが訪ねて来たそうだ。
 「…一応聞いてみたら、あっさりと。いやね、失礼ですがあんなあやふやな話で私も上に掛け合えないんでね、とりあえず聞いてみたんです。何かご存じですか、空き巣の件で…と言ったら、すぐ、あれは魔が差して、開いてたから、ってパニック状態になって。…友だちが住んでいるんだそうです、あのマンションに。訪ねて行ったときに、最初、階を間違えて、その部屋に行ったのだそうです。…ええ、盗みに入った部屋ですね。そのときに鍵が開いていることに気づいて。そのときは間違えたと思って何もせず友人宅に行ったらしいんですが、帰りにまた戻ったみたいですね。」


 「俺もこの辺りで住む部屋探してたときにいろいろ見たんだけど、ペット可の物件って結構ないんだ。だからあのマンションが建った時に、珍しいなと思った。」
 私たちはいつものように、並んでコーヒーを飲んでいた。今日のコーヒーのお供は私が持って来たおせんべいだ。
 「確かに、ペット可って書いてあるよね。」
 「うん。エントランスの横に犬が足を洗えるスペースがあるし、屋上にはドッグランがあるらしい。」
 「へえ、それは知らなかった。」
 この町に”ドッグラン”。この血流が止まったような町に”ドッグラン”。想像も出来なかった。
 「だったら、犬を飼ってないなら、住む意味ないくらいのマンションだよね。」
 そう言う私に、彼はうんうんと頷いた。
 「だろ。それでなんだよ。」
 「何が?」
 「空き巣に遭った家にも、犬が居たんじゃないか、って思った。」
 「うん。実際、居たみたいだよ。」
 近所の立ち話で仕入れた情報だ。
 「それと、生粋の猫派の人が犬派と言い切る状況を合わせてみたってこと。」
 彼はうーんと伸びをして、頭の後ろで手を組んだ。
 「どういうこと?」
 私は目を見張った。
 「酒屋の息子さん、だっけ。盗みに入ったときも、あのワイヤレスのイヤフォンをつけたままだったんだろう。そのとき仕事相手から着信があった。それで思わず応答してしまった。足元では犬が吠えていた。相手にそれを聞かれて、咄嗟に飼っている、と言ってしまったんじゃないかな。それで。引くに引けなくなった。」
 「…へ?」
 「うん。」
 「…それ、だけ?」
 「そう。それだけ。」
 「…。」
 …うん、言われてみれば確かにそんなこともあるかな、と思うのだけど。
 「違ってたらどうするつもりだったの?」
 「どうもしない。だって、話を聞いただけでしょ?」
 そう言って立ち上がり、彼は仕事に戻って行った。うーん…。私は腕を組んだ。手塚さんって、やっぱり良く分からない。キーボードを叩く横顔を盗み見て、ちょっとばかりハンサムだからって惑わされてる場合じゃないのかも、と思った。
 「…そういえば手塚さんって、どうしてこのあたりに住んでるの?」
 ふと思い立って私がそう聞くと、ん、と顔を上げた彼は、
 「ここは、二駅三路線使えるからね。都心近くの割には静かだし。」
 と答えた。
 「そっか。人気のある街に挟まれてるのに知名度が抜群に低い、穴場みたいなところだもんね。」
 ははは、と笑った彼は、
 「うん。…でもまあ、通常運転なら、場所にも時間にもそれほど縛られないから、この仕事してるっていうのもあるんだけどね。もちろん、一時的に拘束されるようなときもあるけどさ。だから。」
 「ん?」
 「どこでも出来るっちゃ出来る仕事だからな。そろそろ島にでも住んで、のんびり働くのもいいね。」
 手塚さんはそう言った。
 …ふうん、と出来るだけ何でもないように私は言った。
 しばらくして、また声がした。
 「…まあ、今はそういうわけにも行かないか。客先に出向くことも多いし、そうなると二駅三路線使えるここから、しばらくは動けないな。」
 …ふうん、と出来るだけ何でもないように私は言った。
 モニターの山の中から押し殺したような笑い声が聞こえた気がしたけど、気のせいだろうか。
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