あなたの部屋で
シミュレーション
「ああ…そうか、じゃあこちらがデータベースさん!」
「初めまして…データベースです。」
手塚さんが、打ち合わせに来ていた友達を紹介してくれた。話に聞いたことはあった。各方面の専門家と組んで仕事をしているらしいのだけど、そのうち、データベースを担当している人なのだそうだ。雰囲気が何となく手塚さんに似ていた。この業界の人って、みんなこんな感じなんだろうか。年齢も一緒くらいだろう。黒縁の眼鏡がさりげなくオシャレだった。私は、出会ったときの手塚さんのことを思い出した。
ここに戻ってきた日のことだ。私は入居している人たちに挨拶して回っていた。
「三階には、…住んでる人がいるのか。」
インターフォンを鳴らすと、はい、と声がした。上の階に越してきた者です、と言うと、今開けます、の返事とともに、ドアがガチャリといった。ロックが解除されたようだった。それでドアを開けて中を覗き込んでみると、モニターの山の中から現れたのは、黒のTシャツにジョガーパンツというラフな服装の、背の高い男の人だった。細身で、ほとんど外に出てなさそうな顔色を見て、なんか同人誌を作っている大学生みたいだな、と思った。眼鏡のせいか、目つきは少々悪いが、端正な顔立ちをしている。しばらく空いていたんですが、上の階に住むことになりました、と挨拶をすると、ああ、大家さんですか、手塚です、よろしくお願いします、と彼は頭を下げた。
それが私と手塚さんの出会いだった。
「この方が、例の大家さん?」
データベースさんが手塚さんに聞いた。
「…ああ。」
「初めまして。手塚さんにはいつもお世話になってます。…あ、お仕事なんだね、じゃあ帰ります。」
そう言って部屋を出ようとしたら、データベースさんが私に言った。
「あ、ご一緒にいかがですか。」
「え?」
「これから手塚と飲みに行くんですが。良ければ一緒に。」
そんなわけで、私はこのふたりについて歩いていた。並んで歩く後ろ姿が良く似ていた。耳に少しかかるくらいの髪の長さまで同じで、双子は言い過ぎだけど、兄弟くらいのレベルでは似ている。友達って似た人が多いけど、残りのメンバーもこんな感じなんだろうか。少し肌寒くなってきたこの季節、今日はパーカーを着ているが、相変わらずラフな服の手塚さんだった。
「…全然。シケった学生だったよな、俺たち。」
近所の居酒屋で、手塚さんを真ん中に、私たちはカウンターに並んで座っていた。
「手塚だってゲームばっかしてたし。」
「何のゲーム?」
「工場に原材料を安定供給する、なんだっけ、シミュレーションゲーム?こいつ、工場好きでね。生産拠点作って、パイプライン引いてな。」
データベースさんが手塚さんを指差して笑う。
「…何それ、楽しいの?」
「うん、まあ。」
「ものすごいプラント作り上げてたよね。」
「…仲間内では、神って呼ばれてた。」
へへ、っと照れくさそうにそう言った手塚さんに、思わず吹き出しそうになった。
「あんまりハマってたから、工場にでも就職するつもりかと思ってたよ。」
「それも真剣に考えたことある。」
「そしてその気持ちは分からないでもない俺。」
「だろ?カッコいいんだよな。うん。」
リラックスした様子で手塚さんはビールを飲んでいた。データベースさんとは大学で一緒だったらしい。今一緒に仕事しているメンバーの中では、一番古い付き合いなのだそうだ。
「大家さんは?」
データベースさんが私を見て言った。
「はい?」
「どんな学生時代を送ってたんですか。」
「私?」
どんな学生時代と言われても。
「…うーん。ずっと女子校だったからねえ。」
「聞きたい!」
データベースさん被せ気味に食いついて来た。手塚さんにちょっと似たこの人は、とても話しやすい感じの人だった。
「大学時代か。…私は女子大だったんですけど、近くの別の大学のサークルに入ってて。」
「何の?」
「…えっと…ダンス…。」
手塚さんがむせ返った。
「毎年、合宿に行くんですよ。」
「ダンス部が。」
「サークルなんだけどね。」
流れで私は学生時代のサークル合宿の話をした。
「夏休みにね、行くんです。場所は決まっていて、山梨の方。その大学のサークルの人たちが良く使っていた宿泊施設みたいで。」
「ほう。」
「合宿に行くとね、飲むでしょう?…いろいろあったなあ。」
「うわ。ちょうだい、それちょうだい。」
データベースさんに促されて話しているうちに、私はいろいろなことを思い出した。わざわざ合宿中に別れたカップルがいてフラれた彼氏の方が暴れたこと、何でか良く分からないけど山に逃げた人を探しに行ったこと、宿のご主人が怖くてみんな恐れていたこと、毎回誰がカップルになるか賭けをしていたこと、他の団体だけど、朝、ノーメイクの時に見ると誰か分からない人が居てざわついたこと、合宿最後の夜の狂乱…。
「…あれ。聞いてる?」
話の止まらなくなっていた私は、黙り込んだままのふたりに気づいた。手元のグラスに視線を落としたまま、データベースさんが言った。
「…俺たちにそんな夜、なかったよな…。」
泣き真似をして見せ、いいの、こんな俺たちに構わず続けて、とデータベースさんは楽しそうに言った。こんな話、つまらないかなと思ったのだけど、手塚さんも楽しそうに聞いてくれていた。手塚さんたちは工学部で、女子はほとんどいない学校だったのだそう。そんなことに安堵してしまう自分の小ささを、ビールと一緒に喉の奥に流し込んだ。
「あ、そうだ。」
「うん?」
「合宿で思い出したけど。」
「また変なこと思い出した?」
手塚さんが笑った。
「またとは?」
データベースさんが手塚さんを覗き込む。
「…髪をね、切られてたんだよね。」
そう、そんなことがあった。
「髪?」
「そう。」
口に運びかけていたグラスを、手塚さんはそっとカウンターに戻した。
その年の合宿も例年通り、一週間ほど行われていた。その中盤での出来事だったと思う。その前の夜も飲んでから寝たのだけど、翌朝起きた私は、変なことに気づいた。私の髪が少しだけど一部、切られている。内側の、目立たない部分だ。気のせいかと思った。でも昨日までと手触りが違う。明らかに短くなっている部分がある。その頃私は肩より少し下くらいまで髪を伸ばしていたのだけど、髪をかき上げてどうにか鏡で見てみると、右耳のちょっと上あたりの髪がやっぱり切られているのが見えた。結構根元近くから切られている。友人たちに聞いてみたけど、みんな知らない、と言う。昨日、酔って自分で切ったんじゃない?と誰も相手にしてくれなかった。
「…で?」
しばしの沈黙のあと、データベースさんが言った。
「ん?」
サラダを頬張った私に、
「…終わり?」
と目を見張る。
「うん。」
「え、いや、誰がそんなことしたの?」
「分かんない。」
「分かんない?」
「うん。分かんない。」
そっかー…、と更に目を見張った彼は、隣の手塚さんに救いを求めた。
「…この人が何を言っているか、手塚には分かるの?」
「いや?」
「あ…うん…そっか…。」
データベースさんは、宙を眺めてぶつぶつ何か言っていた。そしてビールをごくりと一口飲んでから、あ!と顔を上げた。なんだよ、大きい声出すな、と手塚さんは耳を押さえてデータベースさんに顔をしかめた。彼はそんな手塚さんの肩に手を置くと、
「そうだ手塚!」
と更に大きな声で言った。
「なんだ。」
「シミュレーションしてみてよ。どうしたら大家さんが髪を切られることになるのか。」
データベースさんは「グッドアイデア!」の吹き出しが飛び出したような満面の笑みでそう言った。
「あ、それ面白そう!」
面倒くさい、と唐揚げに手を伸ばした手塚さんを、データベースさんが、よ、工場長!とヤジった。見た目は似てるけどやっぱり、このふたりのタイプは結構違うな、と思った。私とデータベースさんから期待の目を向けられ、分かったよ、と手塚さんも笑ってしまった。はあ、とわざとらしくため息をついた彼は、
「んー…じゃあ、まず原材料を教えてくれたまえ。」
と腕組みをして言った。
「どこから話せばいいですか、工場長。」
「そうだな、どんな人がその場にいたか、だな。近くにいた人だけでいいよ。」
それで私はちょっと考え、合宿での部屋割りから話し始めることにした。
「だいたいいつも、五、六人で一部屋を使ってたね。私の部屋には、仲良かった人たちだけだよ。いたずらにしても、私の髪を切って黙ってるなんてことする人たちじゃないと思うけどな。今でも仲いいし。」
「うん。他には?」
「右隣の部屋は…確か後輩たちが使ってたと思う。」
それだ!とデータベースさんが茶々を入れる。
「まさかとは思うけど、大家さん、後輩をいじめたりしてなかった?」
「そんなことしてません。」
「女は怖いからねえ。あと意外と上下関係にもうるさいよな。その恨みとか。」
お前はちょっと黙ってろって、とデータベースさんを制し、
「他には?」
と手塚さんは私に視線を戻した。
「反対側の隣には、同級生だけど、そんなに付き合いはないグループがいたね。仲が悪いとかいうことじゃないよ。タイプが違うというか。プライベートではあんまり付き合いがなかったってこと。」
「タイプが違うって、どう違うの?」
うーん、と私はまた少し考えて、
「いわゆる遊んでる子たち、って感じかな。みんな美人だったし、モテてたんだろうね。コンパばっかりしてたイメージがある。」
と答えた。
「ふうん。」
当時の記憶を手繰る。そしてふと思い出した。
「あ、そう言えば、なんか、ケンカ…?してたかな。」
「その、遊んでる人たちが?」
「うん。なんだっけな…。」
ぼんやりとした映像が浮かんだ。次第に色と音が付いて来る。
「えっとね、すごい、いい会社の人とコンパして、キープしてるとか何とか。そんなこと言ってたような。」
へえ?すごいね。そんなことしてたんだ、その子たち、と相槌を打つデータベースさんに頷くと、
「まあ、ね。あ、でも若い頃ってそういうこと言いたがるっていうのもあるよね。そう言えばデートの話も聞いたことあるんだけどさ、」
脇道にそれた私を、
「なるほど。その関係で揉めてたの?」
と工場長が軌道修正した。ああ、そうだった、と私は彼に向き直ると、
「他の人から聞いたんだったと思うけど…ヤバい人がいたとか?付き合わない方がいいとか?取ったとか取られたとか?なんかそんなことを話だったかな。」
と続けた。
「ヤバい人?」
「うん。まあ、いい男の取り合いだったんじゃないかな。そんな話を聞いた気がする。」
「ふうん。」
「…うーん、思い出して来たぞ。それで友達と、あの子たち男の人のスペックに妥協しない一団だったから、取り合いになるなんて、相手はどれほどの人なんだろうね、って話した記憶がある。」
「PCのスペックにさえ妥協する俺たちなんて、どんな扱い受けちゃうんだろう。」
とデータベースさんがつぶやいた。手塚さんが突っ込む
「いや、俺は妥協したことないぞ。」
「お前は自作だからだろ。基準を自分で作ってるヤツなんて論外なんだよ。」
「落ち着け、どの道ふたりとも論外だ。」
ふたりの学生時代が目に浮かぶようだった。その頃の手塚さんにも会ってみたかったな、と彼の横顔を見ながら思った。
「まあそれはいいけど。」
目元に笑みを残したまま、手塚さんがまた私に聞いた。
「他にも近くにいた人いる?」
「うーん、その遊んでる子たちの隣は、男の先輩たちの部屋だった気がする。…そうだ、その中のひとりと、私の隣の部屋にいた後輩のひとりが合宿中に別れて、大騒ぎになったんだった。」
「さっき言ってた、男の方が暴れたって話?」
「そうそう。」
「じゃあ、その男の先輩たちの部屋、遊んでる子たちの部屋、大家さんがいた部屋、後輩たちの部屋、って順番だったわけだ。」
「うん。」
ふうん、とつぶやいて、手塚さんはまたビールを飲んだ。結構飲んでると思うんだけど、顔色は全然変わらない。いつもより少し饒舌というくらいだ。こう見えてお酒に強い人なのかも知れない。
「よし、じゃあ次は、髪に関することで、何か覚えてることある?さっきの話以外で。」
「髪に?切られてたっぽいってやつ以外で?」
「うん。」
「…そうだなあ。…ああ、あんまり関係ないかも知れないけど。」
髪を切られる前の日だったかと思う。朝起きたら友達に、大丈夫?禿げるんじゃない?と笑われた。え、なんで?と聞くと、すごい髪抜けてない?と友人はベッドを指差した。
「普通でも、一日に五十本くらいは抜けるらしいから、多分関係ないと思うけど。」
「その日は多かったんだ?」
「うーん。良く覚えてないけど、そうなのかな。それで、そんなことがあったから、髪を切られたときに最初は、ああほんとに禿げちゃうんだ!って思ったんだよね。」
面白いね、大家さんって、とデータベースさんが手塚さんに耳打ちしている。
「他にはある?」
「うん…あ、そうだ、これも髪に関係すると言えばすることだね。その遊んでる子たちの中のひとりに、髪を切ってくれって頼まれた。」
「どういうこと?」
「ベリーショートにしてみんなを驚かせたいんだけど、秘密で切ってくれない?って。」
「合宿中に?」
「そう。イメチェンだよって。」
「え、別に美容師の学校だったわけじゃないよね?」
データベースさんが聞いた。
「うん。普通の大学だったから。でも、合宿中に友達同士で髪を切ることは、たまにあったよ。すっごく珍しいってことでもなかった。」
私がそう言うと、
「可愛い…。」
とデータベースさんがつぶやいた。
「ええ!?データベースさん、どうしたの!」
「何が見えてるんだ?」
「友達に髪を切ってもらってる女子が可愛い…。」
「おい…しっかりしろ。」
そう手塚さんが言って、私も笑った。
「あ、そうだ、それとその子なんだけど…。」
私は言い忘れていたことがあったのを思い出し、そう言葉を継ぐと、
「切られてたんだろ?」
と手塚さんが言った。
「え?」
「その子も、髪を切られてた。」
驚いて私は頷いた。
「うん…そうなの。でもね、ガムがついたから、その部分を切ったんだって言ってた。それでもうなんか、短くしたくなっちゃった、って。だから私とは違うかも知れない。…それかまあ、やっぱり誰かのいたずらだったのかもね。」
そんなところかな、私が思い出したのは、そのくらいのことだった。
「確かに怪しい点が多いですね、工場長。」
工場長、と呼ばれて、へへっとまんざらでもなさそうな手塚さんが可愛かった。
「どうでしょう、何か思いつきました?工場長。」
データベースさんはだいぶ酔ってきたようだ。そんなデータベースさんを尻目に、手塚さんはビールのおかわりを頼んだ。大家さんは?何か頼む?と言うので、私ももう一杯だけ飲むよ、と言うと、大丈夫?まあ、同じところに住んでいるわけだから送って行くけどさ、と手塚さんは笑って、私の分も頼んでくれた。
「…うーん。例えばこんなのどうだろう。」
ビールが来るのを待つ間、手塚さんはスマートフォンで何か調べ物をしていたようだった。グラスの表面に氷が白く張りついたビールが運ばれて来ると、はい、と私にビールを渡してくれた。じゃあもう一回乾杯、と私のグラスに自分のグラスとかちりと当ててから、手塚さんはそう言った。
「どんなの?」
そんな仕草にちょっとドキッとしたのを気取られないように気をつけて、私は聞いた。うん、とビールをひとくち飲むと、手塚さんはこう話し出した。
「大家さんの髪を切ったのは、シミュレーションだった。」
「シミュレーション?」
「何の?」
「どれだけ髪を切ればいいか、のシミュレーション。」
「…なんで?」
私とデータベースさんが同時にそう言った。うん、まあ、順番に説明するよ、順番って結構大事なんだよな、いいプラントにするためには、と手塚さんは言った。
「んじゃあ、どこからかな、大家さんが禿げそうになったところからかな。」
データベースさんが、お願いします!と拍手をした。
「大家さんが友達に、禿げるんじゃない?って笑われるほどベッドに髪が散らばっていたわけなんだけど、これも実は犯人に切られたものだった。」
「そうなの!?」
思わず叫んだ私に、
「まあ、こういうゲームだから。」
手塚さんは苦笑しながら言った。
「そうだったそうだった。普通にびっくりしちゃった。」
「その日、犯人は試しに寝ていた大家さんの髪を切ってみた。どうして大家さんだったかと言うと…うーん、たまたま見かけたんだろうね、ぐーすか寝てるところを。部屋の前を通りかかったときか何か。大家さんが寝てるかも知れない、って覗いたくらいの積極性はあったかも。」
「うん。」
「どのくらい切ればいいか分からなかったので、まずは適当な量を切ってみた。外から見た目で分からないこと、という条件はあったので、それでも少量のつもりだった。」
「条件?」
「そう。それで切ってみたものの、少な過ぎたのか、大家さんは切られたことに気づかなかった。それで、この量では足りないんだ、ということが分かった。」
「気づいて欲しかったの?」
「うん。そんで翌日、もう少し多く切ってみたところ、どうやらさすがに大家さんでも気づいたようだった。」
「微妙にバカに…いや、いいや。」
「してないしてない。まあとにかく、大家さんでも気づいたわけだ。でも外見からは分からないから、周りの人たちも特に気にしてないようだった。」
「そうね。」
「とりあえず、これで犯人のシミュレーションは成功した。」
手塚さんは一呼吸して、ビールを飲んだ。食い入るように彼を見つめる私とデータベースさんも、つられて飲む。
「で、次の段階へ行く。」
彼のいわんとしていることは、まだ見えて来ない。
「シミュレーションだった、ということは、本番があった、ということだ。」
「本番?」
「そう。どのくらい切ればいいかが分かったので、犯人は本番環境で同じことを実施した。」
そう言った手塚さんに、データベースさんが頷いた。
「なるほど。テスト環境では上手く動いたってことだな。」
「どこなの?その本番環境って。」
ふたりを交互に見ながら私は聞いた。手塚さんは続けた。
「大家さんの隣の部屋、遊んでる子たちがいた部屋だよ。」
「え!」
「ほう?」
「大家さんが髪を切ってあげた子も、犯人に髪を切られたひとりだ。」
「ひとり?他にもいたの?」
「おそらく、その部屋にいた、犯人以外の全員だ。」
これがゲームだということを、私も、そして多分データベースさんも、すっかり忘れていた。
「あの部屋にいた人たちは、みんな切られてた…切った、犯人以外は?」
「そう。全員がちゃんと気づいたかどうかは分からない。でも犯人の目的が達成されたことは分かっている。」
「ん?どういうこと?」
「とりあえずここまでは、実際に起きたことって言っていいと思う。で、ここから先は完全に、俺の脳内シミュレーションだ。」
「彼女たちが、ケンカしてたんだよね?」
そう問われ、私は迷宮から引っ張り上げられた。
「え?ああ、男の取り合い?」
「ヤバい人がいた、付き合わない方がいい、って言ってたと。」
私は頷いた。
「正確にはどう言ってたか覚えてる?」
私は首を振った。
「正確に覚えてるわけじゃないけど…。相手も遊び人ってことが良くあったらしくて、まあほら…危ない目に遭ったりすることもあるから、そういうところって。その時のコンパにも、そんな人がいたのかなってみんなで話したような気がする。」
なるほどね、と手塚さんは二、三度頷いて、
「うん。まあ、そんなようなことを言っていたとしよう。」
と話を進めた。
「ヤバい人、付き合わない方がいい、それと、髪を切る。それで俺が連想したのは。」
「したのは?」
「薬物検査。」
「やく…え?」
予想外のワードに、意味が遅れてやって来た。
「ヤバい人がいた、というのは、薬物を持っている男がいた、ってことだった。」
「そうなの!?」
私とデータベースさんは同時に叫んだ。
「だからこういう遊びだって。」
と手塚さんにたしなめられ、ああ、そうだったそうだった、と私はどきどきする心臓を押さえた。
「いい?進むけど。」
「うん。」
「彼女たちが行ったコンパで何があったかは、想像する材料がないけど。」
と手塚さんはちょっと考えて、
「髪を切った犯人は、参加者の誰かが男と一緒に薬物を使った、と思ったんじゃないかな。」
と言った。
「どうして?」
「例えば…男が犯人に薬物を見せた。そんでそのあと犯人は、中身がなくなっている薬物のパッケージを見つけた。男は誰かと一緒に使ったことを匂わせた。でも、その誰かが誰なのかまでは分からなかった。とか。」
あの人たちに、そんなことが起きていたのか。彼女たちが集まっていると、そこだけ光り輝いて見えた。あの頃の眩しい輝きが、急速に失われて行くような気持ちになった。手塚さんは続けた。
「犯人が、その男のことをどう思っていたのかは分からない。気に入っていたのか、嫌がっていたのか。でも、男と一緒にクスリを使った友達に、警告したいと思った。」
「警告?」
「私の男に手を出すな、なのか、そんな危ない橋を渡るのは止せ、なのか。」
「うん。」
「それで、髪を切ることを思いついた。」
「ああ…髪の毛で検査するの、聞いたことある。」
うん、でも、とデータベースさんが口を挟んだ。
「良く知らないけど、髪の毛は数本で足りたりしないの?その検査って。」
「実際に検査することが目的じゃないんだ。正確に言うと、犯人は、あなたの髪を持っている、ということを本人に知らせたいだけだった。」
「なんで?」
「まず、普通にみんなに問い質しても、正直に答えないだろうと思った。警察沙汰になる話だからな。それに、クスリに気づいていないメンバーがいたとしたら、このこと自体、知られたくはなかった。どこでどう話が漏れて、自分にまで被害が及ぶかわからないからね。」
「女は噂好きだからな。すぐ仲間を売るし。」
データベースさんが分かったような顔で頷いた。
「何、その偏見。」
私が口を尖らせると、だってほんとのことだろ、とデータベースさんが煽って来た。
「ケンカするなよ。」
手塚さんが私を見て笑う。
「すまんすまん、で?」
手塚さんはビールを飲み、そして言った。
「…それで犯人は髪を切ることで、私はあなたがやったって知ってるのよ、って脅しをかけようとしたんだ。」
ここまで来てやっと、手塚さんの見ているものが、私にもなんとなく見えてきた。
「…私の警告を聞かないなら、この髪を警察に持ち込むぞ、ってことか。」
データベースさんも同じようだった。
「事前に、さりげなく薬物検査の話題でも出したんだろうな。それからこっそりみんなの髪を切った。」
「うん…。」
「心当たりがない人は、質の悪いいたずらとしか思わない。でも、心当たりがある人は。」
「…あの話は自分のことだったのか、と思った。」
「バレてる、って思った、それで怖くなって…慌てて髪を切った…?」
「きっとその、ベリーショートにした子には効いたってことだね。」
場が静まり返ったまま、数秒が流れた。
「…なーんてな。」
手塚さんがそう言って、ビールのグラスをことりとテーブルに置いた。空気がまた流れ始めた。
「なんだ、冗談か…。びっくりした。」
「冗談っていうか、俺にシミュレーションしろって言ったのは君たちでしょ。」
「まあな。」
「それに、多分ところどころ無理がある。気がする。」
そう言って、彼は笑った。
手塚さんのシミュレーションは、突拍子もないようでいて、あり得る話のような気もした。でも、今となっては確かめようもない。それに、確かめるつもりもない。
「…うん…でもまあ、みんな無事に大人になってるから。大丈夫なんだと思う。大丈夫どころか、活躍してるよね…こんな無職の私とは違って。」
「へえ。大家さん、無職なんだ。」
とデータベースさん。
「充電期間、って言っとけばいいよ。」
手塚さんはそう言って笑った。
「あ、でも、その人はどうして大家さんに頼んだんだろう。髪を切ってくれって。」
データベースさんが私に聞いた。
「切るの上手だったの?」
「ううん。今風に言えば…アシンメトリーに仕上がった。」
手塚さんとデータベースさんは黙り込んだ。
「…髪を切られたり、切らされたり…。」
「ははは。」
「手塚が言ってたこと、分かる気がする。」
「…だろ。」
「え?何?何言ったの?」
「ま、とにかくこういう人を選んだんだろうな…。」
「あ。なんか分かんないけど、バカにされてる気がする。」
「まあまあ。」
「褒めてる褒めてる。」
少し酔ってる手塚さんは、いつもより笑っていて、そして優しかった。そんな手塚さんの隣は心地良かった。飲んでいる途中で、何やら目をパチパチしていた手塚さんは、ポケットから細い縁の眼鏡を出して掛けた。話をするようになってから聞いたことだけど、ドライアイがひどい時だけ、こんなふうに眼鏡をかけるのだそうだ。
ああ、楽しいけど、今だけはデータベースさんが居なければなあ、なんてシミュレーションしてしまったこと、それから手塚さんが眼鏡をかけるのを私が楽しみにしていること、は秘密にしておいた。
「初めまして…データベースです。」
手塚さんが、打ち合わせに来ていた友達を紹介してくれた。話に聞いたことはあった。各方面の専門家と組んで仕事をしているらしいのだけど、そのうち、データベースを担当している人なのだそうだ。雰囲気が何となく手塚さんに似ていた。この業界の人って、みんなこんな感じなんだろうか。年齢も一緒くらいだろう。黒縁の眼鏡がさりげなくオシャレだった。私は、出会ったときの手塚さんのことを思い出した。
ここに戻ってきた日のことだ。私は入居している人たちに挨拶して回っていた。
「三階には、…住んでる人がいるのか。」
インターフォンを鳴らすと、はい、と声がした。上の階に越してきた者です、と言うと、今開けます、の返事とともに、ドアがガチャリといった。ロックが解除されたようだった。それでドアを開けて中を覗き込んでみると、モニターの山の中から現れたのは、黒のTシャツにジョガーパンツというラフな服装の、背の高い男の人だった。細身で、ほとんど外に出てなさそうな顔色を見て、なんか同人誌を作っている大学生みたいだな、と思った。眼鏡のせいか、目つきは少々悪いが、端正な顔立ちをしている。しばらく空いていたんですが、上の階に住むことになりました、と挨拶をすると、ああ、大家さんですか、手塚です、よろしくお願いします、と彼は頭を下げた。
それが私と手塚さんの出会いだった。
「この方が、例の大家さん?」
データベースさんが手塚さんに聞いた。
「…ああ。」
「初めまして。手塚さんにはいつもお世話になってます。…あ、お仕事なんだね、じゃあ帰ります。」
そう言って部屋を出ようとしたら、データベースさんが私に言った。
「あ、ご一緒にいかがですか。」
「え?」
「これから手塚と飲みに行くんですが。良ければ一緒に。」
そんなわけで、私はこのふたりについて歩いていた。並んで歩く後ろ姿が良く似ていた。耳に少しかかるくらいの髪の長さまで同じで、双子は言い過ぎだけど、兄弟くらいのレベルでは似ている。友達って似た人が多いけど、残りのメンバーもこんな感じなんだろうか。少し肌寒くなってきたこの季節、今日はパーカーを着ているが、相変わらずラフな服の手塚さんだった。
「…全然。シケった学生だったよな、俺たち。」
近所の居酒屋で、手塚さんを真ん中に、私たちはカウンターに並んで座っていた。
「手塚だってゲームばっかしてたし。」
「何のゲーム?」
「工場に原材料を安定供給する、なんだっけ、シミュレーションゲーム?こいつ、工場好きでね。生産拠点作って、パイプライン引いてな。」
データベースさんが手塚さんを指差して笑う。
「…何それ、楽しいの?」
「うん、まあ。」
「ものすごいプラント作り上げてたよね。」
「…仲間内では、神って呼ばれてた。」
へへ、っと照れくさそうにそう言った手塚さんに、思わず吹き出しそうになった。
「あんまりハマってたから、工場にでも就職するつもりかと思ってたよ。」
「それも真剣に考えたことある。」
「そしてその気持ちは分からないでもない俺。」
「だろ?カッコいいんだよな。うん。」
リラックスした様子で手塚さんはビールを飲んでいた。データベースさんとは大学で一緒だったらしい。今一緒に仕事しているメンバーの中では、一番古い付き合いなのだそうだ。
「大家さんは?」
データベースさんが私を見て言った。
「はい?」
「どんな学生時代を送ってたんですか。」
「私?」
どんな学生時代と言われても。
「…うーん。ずっと女子校だったからねえ。」
「聞きたい!」
データベースさん被せ気味に食いついて来た。手塚さんにちょっと似たこの人は、とても話しやすい感じの人だった。
「大学時代か。…私は女子大だったんですけど、近くの別の大学のサークルに入ってて。」
「何の?」
「…えっと…ダンス…。」
手塚さんがむせ返った。
「毎年、合宿に行くんですよ。」
「ダンス部が。」
「サークルなんだけどね。」
流れで私は学生時代のサークル合宿の話をした。
「夏休みにね、行くんです。場所は決まっていて、山梨の方。その大学のサークルの人たちが良く使っていた宿泊施設みたいで。」
「ほう。」
「合宿に行くとね、飲むでしょう?…いろいろあったなあ。」
「うわ。ちょうだい、それちょうだい。」
データベースさんに促されて話しているうちに、私はいろいろなことを思い出した。わざわざ合宿中に別れたカップルがいてフラれた彼氏の方が暴れたこと、何でか良く分からないけど山に逃げた人を探しに行ったこと、宿のご主人が怖くてみんな恐れていたこと、毎回誰がカップルになるか賭けをしていたこと、他の団体だけど、朝、ノーメイクの時に見ると誰か分からない人が居てざわついたこと、合宿最後の夜の狂乱…。
「…あれ。聞いてる?」
話の止まらなくなっていた私は、黙り込んだままのふたりに気づいた。手元のグラスに視線を落としたまま、データベースさんが言った。
「…俺たちにそんな夜、なかったよな…。」
泣き真似をして見せ、いいの、こんな俺たちに構わず続けて、とデータベースさんは楽しそうに言った。こんな話、つまらないかなと思ったのだけど、手塚さんも楽しそうに聞いてくれていた。手塚さんたちは工学部で、女子はほとんどいない学校だったのだそう。そんなことに安堵してしまう自分の小ささを、ビールと一緒に喉の奥に流し込んだ。
「あ、そうだ。」
「うん?」
「合宿で思い出したけど。」
「また変なこと思い出した?」
手塚さんが笑った。
「またとは?」
データベースさんが手塚さんを覗き込む。
「…髪をね、切られてたんだよね。」
そう、そんなことがあった。
「髪?」
「そう。」
口に運びかけていたグラスを、手塚さんはそっとカウンターに戻した。
その年の合宿も例年通り、一週間ほど行われていた。その中盤での出来事だったと思う。その前の夜も飲んでから寝たのだけど、翌朝起きた私は、変なことに気づいた。私の髪が少しだけど一部、切られている。内側の、目立たない部分だ。気のせいかと思った。でも昨日までと手触りが違う。明らかに短くなっている部分がある。その頃私は肩より少し下くらいまで髪を伸ばしていたのだけど、髪をかき上げてどうにか鏡で見てみると、右耳のちょっと上あたりの髪がやっぱり切られているのが見えた。結構根元近くから切られている。友人たちに聞いてみたけど、みんな知らない、と言う。昨日、酔って自分で切ったんじゃない?と誰も相手にしてくれなかった。
「…で?」
しばしの沈黙のあと、データベースさんが言った。
「ん?」
サラダを頬張った私に、
「…終わり?」
と目を見張る。
「うん。」
「え、いや、誰がそんなことしたの?」
「分かんない。」
「分かんない?」
「うん。分かんない。」
そっかー…、と更に目を見張った彼は、隣の手塚さんに救いを求めた。
「…この人が何を言っているか、手塚には分かるの?」
「いや?」
「あ…うん…そっか…。」
データベースさんは、宙を眺めてぶつぶつ何か言っていた。そしてビールをごくりと一口飲んでから、あ!と顔を上げた。なんだよ、大きい声出すな、と手塚さんは耳を押さえてデータベースさんに顔をしかめた。彼はそんな手塚さんの肩に手を置くと、
「そうだ手塚!」
と更に大きな声で言った。
「なんだ。」
「シミュレーションしてみてよ。どうしたら大家さんが髪を切られることになるのか。」
データベースさんは「グッドアイデア!」の吹き出しが飛び出したような満面の笑みでそう言った。
「あ、それ面白そう!」
面倒くさい、と唐揚げに手を伸ばした手塚さんを、データベースさんが、よ、工場長!とヤジった。見た目は似てるけどやっぱり、このふたりのタイプは結構違うな、と思った。私とデータベースさんから期待の目を向けられ、分かったよ、と手塚さんも笑ってしまった。はあ、とわざとらしくため息をついた彼は、
「んー…じゃあ、まず原材料を教えてくれたまえ。」
と腕組みをして言った。
「どこから話せばいいですか、工場長。」
「そうだな、どんな人がその場にいたか、だな。近くにいた人だけでいいよ。」
それで私はちょっと考え、合宿での部屋割りから話し始めることにした。
「だいたいいつも、五、六人で一部屋を使ってたね。私の部屋には、仲良かった人たちだけだよ。いたずらにしても、私の髪を切って黙ってるなんてことする人たちじゃないと思うけどな。今でも仲いいし。」
「うん。他には?」
「右隣の部屋は…確か後輩たちが使ってたと思う。」
それだ!とデータベースさんが茶々を入れる。
「まさかとは思うけど、大家さん、後輩をいじめたりしてなかった?」
「そんなことしてません。」
「女は怖いからねえ。あと意外と上下関係にもうるさいよな。その恨みとか。」
お前はちょっと黙ってろって、とデータベースさんを制し、
「他には?」
と手塚さんは私に視線を戻した。
「反対側の隣には、同級生だけど、そんなに付き合いはないグループがいたね。仲が悪いとかいうことじゃないよ。タイプが違うというか。プライベートではあんまり付き合いがなかったってこと。」
「タイプが違うって、どう違うの?」
うーん、と私はまた少し考えて、
「いわゆる遊んでる子たち、って感じかな。みんな美人だったし、モテてたんだろうね。コンパばっかりしてたイメージがある。」
と答えた。
「ふうん。」
当時の記憶を手繰る。そしてふと思い出した。
「あ、そう言えば、なんか、ケンカ…?してたかな。」
「その、遊んでる人たちが?」
「うん。なんだっけな…。」
ぼんやりとした映像が浮かんだ。次第に色と音が付いて来る。
「えっとね、すごい、いい会社の人とコンパして、キープしてるとか何とか。そんなこと言ってたような。」
へえ?すごいね。そんなことしてたんだ、その子たち、と相槌を打つデータベースさんに頷くと、
「まあ、ね。あ、でも若い頃ってそういうこと言いたがるっていうのもあるよね。そう言えばデートの話も聞いたことあるんだけどさ、」
脇道にそれた私を、
「なるほど。その関係で揉めてたの?」
と工場長が軌道修正した。ああ、そうだった、と私は彼に向き直ると、
「他の人から聞いたんだったと思うけど…ヤバい人がいたとか?付き合わない方がいいとか?取ったとか取られたとか?なんかそんなことを話だったかな。」
と続けた。
「ヤバい人?」
「うん。まあ、いい男の取り合いだったんじゃないかな。そんな話を聞いた気がする。」
「ふうん。」
「…うーん、思い出して来たぞ。それで友達と、あの子たち男の人のスペックに妥協しない一団だったから、取り合いになるなんて、相手はどれほどの人なんだろうね、って話した記憶がある。」
「PCのスペックにさえ妥協する俺たちなんて、どんな扱い受けちゃうんだろう。」
とデータベースさんがつぶやいた。手塚さんが突っ込む
「いや、俺は妥協したことないぞ。」
「お前は自作だからだろ。基準を自分で作ってるヤツなんて論外なんだよ。」
「落ち着け、どの道ふたりとも論外だ。」
ふたりの学生時代が目に浮かぶようだった。その頃の手塚さんにも会ってみたかったな、と彼の横顔を見ながら思った。
「まあそれはいいけど。」
目元に笑みを残したまま、手塚さんがまた私に聞いた。
「他にも近くにいた人いる?」
「うーん、その遊んでる子たちの隣は、男の先輩たちの部屋だった気がする。…そうだ、その中のひとりと、私の隣の部屋にいた後輩のひとりが合宿中に別れて、大騒ぎになったんだった。」
「さっき言ってた、男の方が暴れたって話?」
「そうそう。」
「じゃあ、その男の先輩たちの部屋、遊んでる子たちの部屋、大家さんがいた部屋、後輩たちの部屋、って順番だったわけだ。」
「うん。」
ふうん、とつぶやいて、手塚さんはまたビールを飲んだ。結構飲んでると思うんだけど、顔色は全然変わらない。いつもより少し饒舌というくらいだ。こう見えてお酒に強い人なのかも知れない。
「よし、じゃあ次は、髪に関することで、何か覚えてることある?さっきの話以外で。」
「髪に?切られてたっぽいってやつ以外で?」
「うん。」
「…そうだなあ。…ああ、あんまり関係ないかも知れないけど。」
髪を切られる前の日だったかと思う。朝起きたら友達に、大丈夫?禿げるんじゃない?と笑われた。え、なんで?と聞くと、すごい髪抜けてない?と友人はベッドを指差した。
「普通でも、一日に五十本くらいは抜けるらしいから、多分関係ないと思うけど。」
「その日は多かったんだ?」
「うーん。良く覚えてないけど、そうなのかな。それで、そんなことがあったから、髪を切られたときに最初は、ああほんとに禿げちゃうんだ!って思ったんだよね。」
面白いね、大家さんって、とデータベースさんが手塚さんに耳打ちしている。
「他にはある?」
「うん…あ、そうだ、これも髪に関係すると言えばすることだね。その遊んでる子たちの中のひとりに、髪を切ってくれって頼まれた。」
「どういうこと?」
「ベリーショートにしてみんなを驚かせたいんだけど、秘密で切ってくれない?って。」
「合宿中に?」
「そう。イメチェンだよって。」
「え、別に美容師の学校だったわけじゃないよね?」
データベースさんが聞いた。
「うん。普通の大学だったから。でも、合宿中に友達同士で髪を切ることは、たまにあったよ。すっごく珍しいってことでもなかった。」
私がそう言うと、
「可愛い…。」
とデータベースさんがつぶやいた。
「ええ!?データベースさん、どうしたの!」
「何が見えてるんだ?」
「友達に髪を切ってもらってる女子が可愛い…。」
「おい…しっかりしろ。」
そう手塚さんが言って、私も笑った。
「あ、そうだ、それとその子なんだけど…。」
私は言い忘れていたことがあったのを思い出し、そう言葉を継ぐと、
「切られてたんだろ?」
と手塚さんが言った。
「え?」
「その子も、髪を切られてた。」
驚いて私は頷いた。
「うん…そうなの。でもね、ガムがついたから、その部分を切ったんだって言ってた。それでもうなんか、短くしたくなっちゃった、って。だから私とは違うかも知れない。…それかまあ、やっぱり誰かのいたずらだったのかもね。」
そんなところかな、私が思い出したのは、そのくらいのことだった。
「確かに怪しい点が多いですね、工場長。」
工場長、と呼ばれて、へへっとまんざらでもなさそうな手塚さんが可愛かった。
「どうでしょう、何か思いつきました?工場長。」
データベースさんはだいぶ酔ってきたようだ。そんなデータベースさんを尻目に、手塚さんはビールのおかわりを頼んだ。大家さんは?何か頼む?と言うので、私ももう一杯だけ飲むよ、と言うと、大丈夫?まあ、同じところに住んでいるわけだから送って行くけどさ、と手塚さんは笑って、私の分も頼んでくれた。
「…うーん。例えばこんなのどうだろう。」
ビールが来るのを待つ間、手塚さんはスマートフォンで何か調べ物をしていたようだった。グラスの表面に氷が白く張りついたビールが運ばれて来ると、はい、と私にビールを渡してくれた。じゃあもう一回乾杯、と私のグラスに自分のグラスとかちりと当ててから、手塚さんはそう言った。
「どんなの?」
そんな仕草にちょっとドキッとしたのを気取られないように気をつけて、私は聞いた。うん、とビールをひとくち飲むと、手塚さんはこう話し出した。
「大家さんの髪を切ったのは、シミュレーションだった。」
「シミュレーション?」
「何の?」
「どれだけ髪を切ればいいか、のシミュレーション。」
「…なんで?」
私とデータベースさんが同時にそう言った。うん、まあ、順番に説明するよ、順番って結構大事なんだよな、いいプラントにするためには、と手塚さんは言った。
「んじゃあ、どこからかな、大家さんが禿げそうになったところからかな。」
データベースさんが、お願いします!と拍手をした。
「大家さんが友達に、禿げるんじゃない?って笑われるほどベッドに髪が散らばっていたわけなんだけど、これも実は犯人に切られたものだった。」
「そうなの!?」
思わず叫んだ私に、
「まあ、こういうゲームだから。」
手塚さんは苦笑しながら言った。
「そうだったそうだった。普通にびっくりしちゃった。」
「その日、犯人は試しに寝ていた大家さんの髪を切ってみた。どうして大家さんだったかと言うと…うーん、たまたま見かけたんだろうね、ぐーすか寝てるところを。部屋の前を通りかかったときか何か。大家さんが寝てるかも知れない、って覗いたくらいの積極性はあったかも。」
「うん。」
「どのくらい切ればいいか分からなかったので、まずは適当な量を切ってみた。外から見た目で分からないこと、という条件はあったので、それでも少量のつもりだった。」
「条件?」
「そう。それで切ってみたものの、少な過ぎたのか、大家さんは切られたことに気づかなかった。それで、この量では足りないんだ、ということが分かった。」
「気づいて欲しかったの?」
「うん。そんで翌日、もう少し多く切ってみたところ、どうやらさすがに大家さんでも気づいたようだった。」
「微妙にバカに…いや、いいや。」
「してないしてない。まあとにかく、大家さんでも気づいたわけだ。でも外見からは分からないから、周りの人たちも特に気にしてないようだった。」
「そうね。」
「とりあえず、これで犯人のシミュレーションは成功した。」
手塚さんは一呼吸して、ビールを飲んだ。食い入るように彼を見つめる私とデータベースさんも、つられて飲む。
「で、次の段階へ行く。」
彼のいわんとしていることは、まだ見えて来ない。
「シミュレーションだった、ということは、本番があった、ということだ。」
「本番?」
「そう。どのくらい切ればいいかが分かったので、犯人は本番環境で同じことを実施した。」
そう言った手塚さんに、データベースさんが頷いた。
「なるほど。テスト環境では上手く動いたってことだな。」
「どこなの?その本番環境って。」
ふたりを交互に見ながら私は聞いた。手塚さんは続けた。
「大家さんの隣の部屋、遊んでる子たちがいた部屋だよ。」
「え!」
「ほう?」
「大家さんが髪を切ってあげた子も、犯人に髪を切られたひとりだ。」
「ひとり?他にもいたの?」
「おそらく、その部屋にいた、犯人以外の全員だ。」
これがゲームだということを、私も、そして多分データベースさんも、すっかり忘れていた。
「あの部屋にいた人たちは、みんな切られてた…切った、犯人以外は?」
「そう。全員がちゃんと気づいたかどうかは分からない。でも犯人の目的が達成されたことは分かっている。」
「ん?どういうこと?」
「とりあえずここまでは、実際に起きたことって言っていいと思う。で、ここから先は完全に、俺の脳内シミュレーションだ。」
「彼女たちが、ケンカしてたんだよね?」
そう問われ、私は迷宮から引っ張り上げられた。
「え?ああ、男の取り合い?」
「ヤバい人がいた、付き合わない方がいい、って言ってたと。」
私は頷いた。
「正確にはどう言ってたか覚えてる?」
私は首を振った。
「正確に覚えてるわけじゃないけど…。相手も遊び人ってことが良くあったらしくて、まあほら…危ない目に遭ったりすることもあるから、そういうところって。その時のコンパにも、そんな人がいたのかなってみんなで話したような気がする。」
なるほどね、と手塚さんは二、三度頷いて、
「うん。まあ、そんなようなことを言っていたとしよう。」
と話を進めた。
「ヤバい人、付き合わない方がいい、それと、髪を切る。それで俺が連想したのは。」
「したのは?」
「薬物検査。」
「やく…え?」
予想外のワードに、意味が遅れてやって来た。
「ヤバい人がいた、というのは、薬物を持っている男がいた、ってことだった。」
「そうなの!?」
私とデータベースさんは同時に叫んだ。
「だからこういう遊びだって。」
と手塚さんにたしなめられ、ああ、そうだったそうだった、と私はどきどきする心臓を押さえた。
「いい?進むけど。」
「うん。」
「彼女たちが行ったコンパで何があったかは、想像する材料がないけど。」
と手塚さんはちょっと考えて、
「髪を切った犯人は、参加者の誰かが男と一緒に薬物を使った、と思ったんじゃないかな。」
と言った。
「どうして?」
「例えば…男が犯人に薬物を見せた。そんでそのあと犯人は、中身がなくなっている薬物のパッケージを見つけた。男は誰かと一緒に使ったことを匂わせた。でも、その誰かが誰なのかまでは分からなかった。とか。」
あの人たちに、そんなことが起きていたのか。彼女たちが集まっていると、そこだけ光り輝いて見えた。あの頃の眩しい輝きが、急速に失われて行くような気持ちになった。手塚さんは続けた。
「犯人が、その男のことをどう思っていたのかは分からない。気に入っていたのか、嫌がっていたのか。でも、男と一緒にクスリを使った友達に、警告したいと思った。」
「警告?」
「私の男に手を出すな、なのか、そんな危ない橋を渡るのは止せ、なのか。」
「うん。」
「それで、髪を切ることを思いついた。」
「ああ…髪の毛で検査するの、聞いたことある。」
うん、でも、とデータベースさんが口を挟んだ。
「良く知らないけど、髪の毛は数本で足りたりしないの?その検査って。」
「実際に検査することが目的じゃないんだ。正確に言うと、犯人は、あなたの髪を持っている、ということを本人に知らせたいだけだった。」
「なんで?」
「まず、普通にみんなに問い質しても、正直に答えないだろうと思った。警察沙汰になる話だからな。それに、クスリに気づいていないメンバーがいたとしたら、このこと自体、知られたくはなかった。どこでどう話が漏れて、自分にまで被害が及ぶかわからないからね。」
「女は噂好きだからな。すぐ仲間を売るし。」
データベースさんが分かったような顔で頷いた。
「何、その偏見。」
私が口を尖らせると、だってほんとのことだろ、とデータベースさんが煽って来た。
「ケンカするなよ。」
手塚さんが私を見て笑う。
「すまんすまん、で?」
手塚さんはビールを飲み、そして言った。
「…それで犯人は髪を切ることで、私はあなたがやったって知ってるのよ、って脅しをかけようとしたんだ。」
ここまで来てやっと、手塚さんの見ているものが、私にもなんとなく見えてきた。
「…私の警告を聞かないなら、この髪を警察に持ち込むぞ、ってことか。」
データベースさんも同じようだった。
「事前に、さりげなく薬物検査の話題でも出したんだろうな。それからこっそりみんなの髪を切った。」
「うん…。」
「心当たりがない人は、質の悪いいたずらとしか思わない。でも、心当たりがある人は。」
「…あの話は自分のことだったのか、と思った。」
「バレてる、って思った、それで怖くなって…慌てて髪を切った…?」
「きっとその、ベリーショートにした子には効いたってことだね。」
場が静まり返ったまま、数秒が流れた。
「…なーんてな。」
手塚さんがそう言って、ビールのグラスをことりとテーブルに置いた。空気がまた流れ始めた。
「なんだ、冗談か…。びっくりした。」
「冗談っていうか、俺にシミュレーションしろって言ったのは君たちでしょ。」
「まあな。」
「それに、多分ところどころ無理がある。気がする。」
そう言って、彼は笑った。
手塚さんのシミュレーションは、突拍子もないようでいて、あり得る話のような気もした。でも、今となっては確かめようもない。それに、確かめるつもりもない。
「…うん…でもまあ、みんな無事に大人になってるから。大丈夫なんだと思う。大丈夫どころか、活躍してるよね…こんな無職の私とは違って。」
「へえ。大家さん、無職なんだ。」
とデータベースさん。
「充電期間、って言っとけばいいよ。」
手塚さんはそう言って笑った。
「あ、でも、その人はどうして大家さんに頼んだんだろう。髪を切ってくれって。」
データベースさんが私に聞いた。
「切るの上手だったの?」
「ううん。今風に言えば…アシンメトリーに仕上がった。」
手塚さんとデータベースさんは黙り込んだ。
「…髪を切られたり、切らされたり…。」
「ははは。」
「手塚が言ってたこと、分かる気がする。」
「…だろ。」
「え?何?何言ったの?」
「ま、とにかくこういう人を選んだんだろうな…。」
「あ。なんか分かんないけど、バカにされてる気がする。」
「まあまあ。」
「褒めてる褒めてる。」
少し酔ってる手塚さんは、いつもより笑っていて、そして優しかった。そんな手塚さんの隣は心地良かった。飲んでいる途中で、何やら目をパチパチしていた手塚さんは、ポケットから細い縁の眼鏡を出して掛けた。話をするようになってから聞いたことだけど、ドライアイがひどい時だけ、こんなふうに眼鏡をかけるのだそうだ。
ああ、楽しいけど、今だけはデータベースさんが居なければなあ、なんてシミュレーションしてしまったこと、それから手塚さんが眼鏡をかけるのを私が楽しみにしていること、は秘密にしておいた。