もう一度、君に恋する方法

 クラリネットを始めたのは、小学校一年生の時だった。市が運営する小四から入れるマーチングバンドに憧れて、自分も四年生になったら入団するんだと決めていた。そのために始めた。
 四年生になって入団届けを出した日は、期待と、自分もお姉さんになったんだという喜びや自信に満ち溢れていた。練習は厳しかったけど、楽しさも同じくらいだった。みんなの前で演奏するのも気持ちよかった。
 中学生になって、部活は当然のように吹奏楽部に入った。同じマーチングバンド出身の人もたくさんいて、レベルはかなり高く、吹奏楽の大会の常連校でもあることもうなずけた。
 練習は厳しかった。規律も同じくらい厳しかった。だけどそれは、マーチングバンドをしていた時も同じ。だから私は耐えられると思った。厳しい基礎練も、体力づくりの筋トレも、下級生だからという理由だけで練習室が与えられなかったときの空しさも、練習に行っても先輩たちの背中をただ見つめるだけの時間も、すべて練習と思って耐えてきた。先輩たちが出す課題をひたすらこなしてしがみついた。それを乗り越えた人だけが、舞台に立てると信じて。
 だけど、私たち下級生が舞台に立つことはなかった。舞台に上がれるのは、実力が認められた人というのは建前で、実質、上級生、殊更三年生のみだった。どんな時も優先順位は三年生、二年生、一年生。練習場所も、練習時間も、舞台の席も。残りの一、二年生はその空席を埋めるための人員のようなものだった。それでもその数席を得ようと、みんながむしゃらだった。
 その厳しさに耐えられずやめていく人もいたし、同級生の中には、「どうせ三年生になったら順番が回ってくる」と練習に来なくなり、そのまま退部していく人もいた。
 私はなんとか自分の実力を認めてもらって、早く舞台に立ちたかった。三年生まで待ってられなかった。自分の実力を示すには、ソロコンしかなかった。唯一の独り舞台。それだって全員出られるわけではなく、先生や先輩たちによる審査を通った人だけだった。そのために、必死になって練習した。ソロコンで良い成績を残せば、舞台に上がれる可能性が上がる。
 そうして私は二年生までに、ソロコンで輝かしい成績を残した。そして数少ない二年生の精鋭となった。

 私に大きなチャンスが回ってきたのは、二年生の夏の大会だった。
 三年生の人員不足でクラリネットの一枠だけ、下級生に与えられた。二年生でオーディションをした結果、勝ち取ったのは私だった。ようやくつかんだ席だった。私は一層、練習に励んだ。
 
 事件が起きたのは、夏休みの練習が始まったその日だった。
 これまでずっと練習に来ていなかった三年生の先輩が、突然練習に現れた。私たちは当然戸惑った。いくら三年生とはいえ、今から練習に参加して本番を迎えるのは到底無理だろうというのは、暗黙の認識だった。顧問の先生も、困った顔をしていた。だけど誰も何も言わなかった。
 流れは、先輩が大会に出る方向になっていた。実力が認められて舞台に立てる私を差し置いて。まるで私ははじめからいなかったかのように。今まで私が座っていた席に、先輩は平然とした顔で楽器を持って座った。
 その光景を目にした私の楽器を握る手元が震えた。

 そんなの絶対、許せない。あの席は、私が勝ち取ったもの。力が認められた、私が座るべき椅子。

 気づいたら、先輩の前に立っていた。そして、言い放った。

「どいてください。そこは私の席です」

 私の声だけが、部屋の中に響いた。
 先ほどまで楽器の音があふれていたのに、いつの間にか周りはしんとなっていた。自分に痛いくらいの視線が突き刺さるのを感じた。

「は?」という不機嫌な声と共に、ぎろりとした恐ろしい目が私に向けられた。だけど私は、ひるまず続けた。

「今さら交代なんて、無理です。本番まで時間がないんです。全然練習に出ていなかった先輩が今さら出るなんて、そんなのみんなだって迷惑……」

 最後まで言う前に、先輩は目をむいて私に襲い掛かってきた。

「あんたは来年もあるでしょ? 三年になったらどんな下手くそでも出られるんだから。私は今年しかないの。だから代わりなさいよ。私だってずっと順番待ってたんだから」

 そう言って、先輩は私のクラリネットを奪い取った。そしてそれを、思い切り床にたたきつけた。
 それは、ほんの一瞬の出来事だった。
 私の楽器は、言葉には言い表せない無残な姿になって、私の目の前に横たわっていた。その楽器と共に、私はその場に崩れ落ちた。わなわなと口元が震えた。その震えが、全身に広がっていった。

 無論、楽器を失った私が大会に出ることはなかった。先輩は何事もなかったかのように舞台に立った。誰も何も言わなかった。どんなに音程がズレてても、どんなにタイミングがずれてても、どんなにみんなと音が混ざらなくても。
 そしてその年、その大会で、私たちは予選落ちした。何年かぶりの予選敗退。
 結果発表が終わったその日、反省会が行われた。そこで聞こえてきたのは、耳を疑うような言葉だった。

「柏木さんのせいだよ。柏木さんが先輩に逆らうから」
「柏木さんが団結力を乱したから、予選敗退になった」

 反省会で、まさかの総攻撃を受けた。その場にいた顧問の先生も、

「そうだな、後輩なんだから、先輩に素直に譲っておくべきだったのに」

 そう言って、多数派のための理解ある教師に努めた。
 愕然とするしかなかった。
 正論を述べたはずなのに、慰められこそすれ、責められるいわれなんてないのに、その場に私の味方は一人もいなかった。

 私はそのまま部活をやめた。
 楽器も壊れたし、私も壊れた。
 家族に当たり散らして、学校にも行けなくなった。
 ボロボロになるまで使ったクラリネットの教則本も、今までこなした曲も、ソロコンでもらった賞状も、マーチングバンド時代の思い出品も、すべて破り捨て破壊した。
 
 音楽は、私からすべての物を奪っていった。友達も、家族も、楽しかった思い出も。クラリネットの音色も。音楽を好きな気持ちも。



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