遠き日の忘れ物「思い出の家族たちへ」
 東北新幹線は大宮 盛岡間の運行だった。
それが上野にまで延び、東京駅に乗り入れるようになった。
 さらには盛岡から秋田へ、秋田新幹線が走り、仙台から山形へ山形新幹線が延びていった。
 さらに東北新幹線は八戸へ、新青森へと延びて今では津軽海峡を潜って新函館北斗にまで延びている。
 市街地を駆け抜ける新幹線も圧巻だが、海底トンネルを疾走する新幹線も見応え十分である。
 関門トンネルといい、瀬戸大橋といい、青函トンネルといい、日本はなんとまあすごい開発をしてきたものか、、、。

 函館で待っている加奈子は三人の娘を持つ母親であった。
それがなぜ、ぼくと親しくなったのか?
縁というやつは本当に恐ろしい物である。
それまで恋というやつに全く縁が無かったぼくでさえ春が来たのかと思った。
 メールで話をし、時々は電話をする。
娘たちはというと、メールの添付動画で近況報告をするくらいである。

 冴子はなんとか長女らしく踏ん張っていた。
愛子は小学生になったばかりで、環境の変化を受け入れられずにいた。
 かおりは両親の離婚から来る精神的なショックを一番強く受けていた。
だからなのか、ぼくが来ることになった時、思い切り泣いていた。
「みんなで幸せになろうね。」と。
結婚すればこの三姉妹とも一緒に暮らすのである。

 新幹線は昼前に八戸に着いて、ぼくはスーパー白鳥に乗り換えた。
列車は青森駅を出ると津軽海峡線へ向かう。
そして少しずつ下がりながら青函トンネルへ入っていくのである。
 トンネルを貫けるまでの所要時間は40分ほど。
この中には青函トンネル工事の様子を写した写真などを展示している駅が在った。
竜飛海底駅と吉岡海底駅である。
でもさすがにこの時期、降りて見るのは寒いかも。
 現実、冬季は営業を停止しているのである。
その駅も2013年春には北海道新幹線の工事に合わせて営業を終了している。

 青函トンネルを出ると木古内町を通って40分ほどで函館駅に着いた。
青森へ向かう貨物列車が遅れていたので予定よりは遅くなったが無事に着いたことでぼくはホッとした。

 駅員に誘導をお願いして荷物を抱えたぼくが改札を抜けると加奈子は娘たちと一緒に緊張した顔で待っていた。
 (懐かしい人だ。)
加奈子は一瞬でそう思ったらしい。
 「さあ、お昼でも食べに行こうか。」
 五人で外へ出ようとした時、愛子が加奈子に手紙を渡した。
 その手紙を読み下した加奈子は思わず吹き出してしまった。

 『パパ だいすきだよ。 おいこ。』

 「愛子、これ 間違えたべ?」
 その手紙を回し読みした冴子やかおりも釣られて笑ってしまった。
「ほんとやん。 あんた 自分の名前くらいちゃんと書きなさいよね。」
 しかし、そのおかげでピンと張りつめていた空気が和んでしまった。
 ラーメン屋に入ると中を誘導してくれるのは愛子である。
その頃はまだまだ問題らしい問題も無かったのだ。
 ラーメンを食べながら娘たちはいつものように大騒ぎをしている。
それを聞きながら食べているのだが、さっきから他人のような気がしない。
当然のように溶け込んでしまっている。
初めて会いに来たというより懐かしい家に戻ってきたという感じなのである。
ぼくは何だか不思議な気がした。
 それから四人が住んでいるというアパートに戻ってきた。
最初はホテルに泊まる計画だったのだが、「金も掛かるし結婚するんだからいいだろう。」ってことでね。

 四人が住んでいるのは老人ホーム前の小さなアパートである。
 部屋に落ち着いたぼくは盛岡の土産を加奈子に渡した。
饅頭のような、饅頭ではないようなカモメの卵である。
 「何これ? 変なの。」
娘たちはまたまた大騒ぎをしている。
すると、ぼくの所へ愛子が何かを持ってやってきた。
よく見ると、それは餡だった。

 それにしても高丘町は静かな所である。
老人ホームが在り、小中学校や大学が在る。
そして戸倉町や榎本町へ下りていく急な坂道、、、。
 ぼくが当時住んでいたのは中央病院裏の下宿である。
前に救急搬送用の入り口が在ったからか、昼夜を問わずに救急車が出入りしていた。
 周りは高校生や専門学校生で、こちらはこちらで昼夜を問わず賑やかである。
 夏ともなれば窓を開け放して深夜まで真に賑やかで眠れないくらいだ。
 一階には風呂と食堂が有る。
ぼくは全盲だから「何処か空いたら教えてね。」って頼むのだが、、、。

 しかしまあ、それより何より驚いたのは視力障碍者を知らない人たちが圧倒的に多いという事実である。
全盲故、白杖を持って移動するのだが、それがぶつかっただけでカバンで殴られたり蹴飛ばされたりするのだからおっかない。
 市内を歩いていても嫌な思いをすることは多々有る。
 夜に買い物に出掛けた時だった。
 交差点で立ち止まっていると、携帯で話しながら若い男が歩いてきた。
「あっそう? 俺さあ、交差点の所に来たんだけど白い棒を持った変なのが居て気持ち悪いんだ。」
周りは静かで男が話していることはよく聞こえる。
それがぼくのことだってのはすぐに分かったよ。
 でもね、こんなのは喧嘩する相手じゃないんだ。
基礎的なことを知らないし、これまで障碍者とは関わったことが無いんだろうからさ。

 盲学校、聾学校、養護学校は一般校との交流も接点も極端に少ない。
その状態で社会に出てからいきなり出会うのだから困惑するのも無理は無い。
いい加減、教育の壁を取り払ってほしいものだ。
 特に盲学校については先天盲が激減してきている今、再編を余儀なくされている。
大きな校舎でありながら、使われている教室は少ない。
そこへ視力障碍センターの存続問題も絡んできているのだから思い切った再編策を打ち出すべきだろう。

 センターについてはまだまだ利用価値が無くなったわけではない。
今は就労支援の作業所も多種多様で多くなっているのだから、そこで視力障碍者に対する訓練とか職員の教育などに当たることも出来るだろう。
盲学校は全国的に大規模な再編をするべきだと思う。
また、一般校へ補助教員として出向することも考えなければいけない。
そのためには文部科学省の大胆な意識改革が求められるけれど、、、。
 いずれは一般校で授業を受けたいと思う障碍者も出てくるはず。
そうなれば点字や拡大文字、歩行訓練など盲学校教員でなければ体験できないカリキュラムも含まれているわけだ。
また数学などの立体図形や点字グラフなども一般教員では製作するのも難しい。
そのような分野にこそ力を発揮してもらいたい。
 そのうえで本体の学校は按摩 鍼 灸の専門学校として存続することは可能だろう。
 ここでぼくが祈りたいことは按摩鍼灸の技術を損なわないでもらいたいということだ。
如何せん、鍼灸師の身分向上だけが金科玉条の如くに議論されてしまったから技術が疎かになってしまっている。
 確かに大臣免許になって身分は国家資格になった。
しかし技術的には大学生よりも劣っているのである。
 ぼくら昭和時代の鍼灸師は身分こそ都道府県知事免許であるが、技術習得は真に喧しかった。
 ぼくでさえ師匠からは在学中に褒められたことは無いのである。
卒業間際になって「お前は本物になれ。 本物の治療家になれ。」と言われたのが唯一である。
その通りにぼくは磨いてきた。
今の鍼灸師にそのような人がどれくらい居るだろうか?
甚だ疑問であり不安である。
 今の訪問マッサージ業界の低堕落を見るとそう思わずにはいられない。
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