それぞれの恋物語

第10話 ~ 自ら選んで進む未来 ~

人生には、いくつもの選択が用意されている。
選択しなければならない時に、選ばず立ち止まったら未来は訪れない。
人生の時間は限られており、その時々で選択して行かなければ何も変わらない。
理想の未来は、自らの力で構築していかなければ何も得られない。



 彼女が部屋を出て行ってから、勤めていた会社を辞めて暫く旅に出た。
 彼女と別れ携わってきた仕事にも全く興味がなくなり、空虚な心を埋める為に出た旅だったが、アジアの国々で決して恵まれずとも明日への希望を持って無心で働く彼らの姿を目の当たりにして、燻っている自分の存在の小ささに気づかされ、仕事への意欲が再び沸き直ぐに帰国し就職活動をした。運よく、自分が携わりたかった仕事に就けて、今は仕事で充実した日々を送っている。 

 だいぶ仕事に慣れてきたある日、担当の仕事で一緒に作業をすることの多い同僚が、定時にも関わらず、必死な形相でPCの画面を覗いているので、パーテーション越しに声を掛けてみた。
「羽田さん、たまには一緒にどうです?」
声を掛けられた同僚の羽田は、一瞬“えっ”という顔をしていた。
「どうしました、羽田さん?」
「あ、いやなんでもない。行きましょうか」
「じゃあ、先に降りていますね。下のホールで待っています」そう伝えると、羽田が「オッケー」と答えたので、自分は一足先にエレベーターホールへ向かった。

会社を出て、駅に向かう途中にあるビアダイニングの店に入った。
 ビールを飲みながら、ふと彼女の事を思い出していた。 
 「羽田さんって、結婚されていますよね。何年目になるんですか?」
 「3年目かな。今井さんは、独身だっけ?」
 「浮いた話はないですよ。彼女もいませんし」
 「あ、なんかごめん」申し訳なさそうに羽田が謝る。
 「やだなあ、あやまらないでくださいよ。気にしていません、でもないか」
 実際には、出て行った彼女のことを引きずっている自分が、今ここにいる。
 「いえ、ここの会社に来る前まで彼女と同棲していたんですが、別れてしまって」
 羽田は、そっか仕方ないなと言ってビールを飲む。何となく誰かに話を聞いてもらいたかった気分だったこともあり、別れた彼女とのことを話し始めた。

 そんな話をしたら、彼もまた日常において思うことがあるらしい。羽田の話を聞いていると、結婚が何なのかよく分からなくなる。以前同棲をしていたから、結婚とさほど変わらないだろうという感覚もあり、同棲と結婚で異なるのは生計に関わる互いの財務だろうか。
 「羽田さんは、お子さんいるんですか?」
 「いや、まだだけど」
 「結婚って、子供を作る、つまり家族になることが結婚なんでしょうかね?」
 「うーん、そうとも言えるけど、それも違うというか」
 「結局、出て行った彼女が求めていたものって、何だったんだろう?」
 「好きだから、一緒に人生を過ごしたいから結婚する。ということじゃないかな」
 それだったら、自分は彼女と結婚するつもりでいた。ただ、あの時は、仕事のことがあって踏み切れなかっただけなのだが。長年一緒に住んでいた彼女が家を出ていったのは、今から三か月くらい前の夏の終わり頃だ。その後、彼女とは連絡を取っていない。彼女は今頃どうしているのだろうか。

 待ちゆく人々がクリスマスイベントに心弾む頃になると、彼女とのことについてようやく客観的に考えられる様になってきた。以前は、常にどこかで彼女の面影を追い続けいていたが、最近は思い出すことはあっても、深くは考えなくなっていた。
 大学時代の先輩から欠員が出たのでウチに来ないか、と誘いがあり今の会社に転職をした。転職直後一か月間は慣れない環境で忙しかったこともあり、別れた彼女のことを忘れさせる良いきっかけになった。それに、この仕事は以前から希望していたやりたい仕事でもあったので、楽しくて充実した毎日を送っている。
ただ、充実した日々を送っていると、“あの時、彼女は家を出ていかなくても、今に至れば何事もなく彼女との日々が続いていたのだろうか”と、ぼんやり思うこともあった。そんな風に思い出すことはあっても、心の痛みはもうない。

 
 
 暫くは恋愛に対して興味はないだろうと思っていた。出会いも求めていなかったし、男性も女性も同じ人間として一括りにしか考えていなかった。そして、そういう考えの期間が、暫く続くのだろうと思っていた。しかし、その予想は見事に外れた。
 当初、何となくしか思っていなかった女性が、気になる女性へとなって、それがいつしか彼女のことばかり考えるようになっていた。

 初めて彼女に会った時は、綺麗な女性だな、くらいしか思っていなかった。
オフィスにいる彼女に事務的手続きを依頼する時だけ、彼女とほんのわずかな遣り取りがあるくらいだ。特に愛想が良いというわけでもなく、ザ・事務手続き、という感じの遣り取りで、“こんにちは”、“お疲れさまです”、“ありがとうございました”、くらいの言葉しか交わしたことがない。特にニコリともしないし、殆ど目も合わせたこともない。彼女が自分の好みのタイプの顔だからか、何となく気になる存在でしか最初はなかった。
 他にも事務手続きをする女性事務員がいて、こちらの彼女は愛想も良いし感じも良い、むしろ可愛らしさも感じる。一言二言の世間話だってする。だけど、彼女に対しては何とも思わず、単なる事務員としか認識していない。
 事務手続きのためオフィスに行くと、いつも入り口正面カウンター奥にある左右デスクの左側に彼女が座っている。自分が事務手続きの為にオフィスを訪れると、そのデスクに座って彼女はなんらかの仕事をしている。そして、カウンターに来客があると、彼女がカウンターにきて事務手続きをするという流れだ。
 たまたま彼女がデスクに不在の時は、別の事務員女性が対応してくれるのだが、そんな時に限って彼女がカウンター背後を通り過ぎ、少し離れたカンターで何か作業をするものだから、何となく自然と目で彼女を追ってしまう。彼女を何となく目線で追っていくうちに、いつのからか彼女が気になる存在になっていった。

 ある日、事務手続きを済ませた後、屋外の休憩スペースに置いてある自販機でコーヒーを買って休憩していると、年配の女性清掃スタッフが自販機の前に置いてある休憩スペースのテーブルを拭いていた。ふと、彼女のことについて何か訊けないかと思い声をかけてみることにした。
 「あの、すみません、つかぬ事伺いたいのですが?」
 「あら、なんでしょう?」年配の女性はテーブルを拭いていた手を休めてこちらを見る。
 「オフィスのカウンターの正面から見て左側に座っている女性の名前分かりますか?」
 年配の女性は一瞬、訝しげに自分を見たが、直ぐに彼女の名前を教えてくれた。

 彼女の名前を聞いた瞬間、思い出したことがあった。

 事務手続きをする際に、何らかの変更があったりなどで、事務員から電話を何度か貰ったことがあった。その時に名乗っていた名前を聞き覚えていて、そのことを思い出したとき少し意外だと思った。何故なら、“本田“と名乗って電話をかけてくる女性は、とても感じが良かったので、とても印象に残っていたからだ。

 “あの電話をくれていたのが、彼女だったのか”
 あまりにも印象が違い過ぎるので、驚きだった。

 そんな感じで、彼女とはただのビジネスでの接点でしかないが、彼女に会う機会が多くなればなるほど彼女のことを一人の女性として意識してしまう。ただ、彼女には付き合っている恋人がいるかもしれないし、結婚しているかもしれないし、彼女のことは全く分からないので、自分としては“この気持ちの深追いはせず、節度ある距離感を保ち、単にと目から眺めるだけ”と割り切っていたはずだったのだが、そのはずだったのだが・・・・。


 半年ほど経ち、年を跨いでようやく春の訪れを感じ始めた頃、いつもの通り事務手続きを済ませるためにオフィスに行くと、普段は4,5人いる事務員が、今日は彼女一人しかおらず、短い時間の事務手続きだけど彼女と二人きりになるかと思うと、意味なく胸が躍った。
 
 「こんにちは」

 デスクに座っている彼女に声をかける。

 「こんにちは」と、いつも通りの彼女の返事だ。もちろん、いつも通り彼女は、自分を見ることもないし、目を合わせることなく淡々と事務手続きを始めた。特別な愛想もない。これもいつも通りだ。だが、今、オフィスにいるのは、彼女と自分だけ。なので、今日は特別な一歩踏み出てみることにした。

 「いつも素敵だなって、そう思っていました」

 「・・・・。」

 淡々と事務手続きを進める彼女。できる限り爽やかにいやらしくなく言ったつもりだったが、彼女に無視された・・・。
 まあ、人から、かっこいい、可愛い、素敵って誉め言葉を貰って嫌な思いをする人はいないだろう、と自己治癒に努めた。が、この沈黙は、とても恥ずかしい・・・・・。
 すると、彼女は、突然パッと顔を上げて自分を見ると、笑顔と、明るい声で、「ありがとうございます」と、予想外のタイミングで返答したものだから、自分が思っていたのと違う対応に、あたふたとペースが一気に崩れる。
 「あ、すみません。変なことを言ってしまって」
と、分けわからないことを口走ってしまった。
 “えっ、なに? 変なことって。彼女が可愛いってことが変なこと?”思考が暴走をする。
 恥ずかしくて自分の顔が赤くなるのが分かった。
 その間も、彼女は淡々と事務作業を進める。
 “なに、この彼女の冷静さ、言われ慣れているとか?”
 すると、彼女が書類を差し出して「あの、ココ書き損なっています」と、書類の箇所を指摘する。
 “その上、このタイミングで書き損なっただと?!”
 「すみません!」と慌てて、書き損なったところを訂正しようと・・・・、うん?
 「あの、この申請事項は、この欄の記述で間違いないかと・・?」恐る恐る彼女の方を見上げる。
 すると、彼女は、さっと書類を受け取り、再び事務処理をした。
 “え、もしかして、彼女も緊張しているのか?”
 処理作業をしている彼女の様子を注意深く伺うと、そうとも見える。そんなことを考えていたら、彼女から申請受理書類が差し出された。
 「はい、こちらで結構です」と彼女は言うと、デスクの方に戻っていった。
 勇気を振り絞って取った行動だったのに、何だか肩透かしの様な、何とも言えない風が心の中を吹き抜け、そして彼女との遣り取りは終わってしまった。

 もう少し、果敢に何か話をかけても良かったのだが、運悪く次の順番の人が並んでしまい、彼女の仕事を邪魔するわけにもいかなかったので、さっさと出口へと向かって歩き出した。
 後々、このことがきっかけで、彼女と急速に近づくことになるとは、その時は思いもよらなかったのだが。
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