それぞれの恋物語

第9話 ~ 生存競争 ~

1,優秀な世代を残す為に自分自身を常に磨き続ける。
2,どんな環境であろうと、その環境の変化に応じた適応力を備え多様化に応える。
3,社会生活の中でより良い生活を築く為にスキルアップを怠らず懸命に稼ぐ。
4,心身共に強靭で不屈な精神を持ち、探求と新しいことへの挑戦を怠らない。
5,人生を一緒に歩む伴侶を何よりも大切にする。



 妻は美人だと思う。惹きこまれそうになるほどの美しい瞳、まっすぐな鼻筋に触れてみたくなる唇、左右バランスの取れた整った顔立ち、小顔で手足がすらりと長く、それらが実際の身長よりも背を高く見せ、ハイヒールを履いても尚もスッと綺麗な直線を奏でる美脚ライン。そんな妻は、普通に例外なくモテる。

 ビジネスでも、彼女は着実にキャリアを積んできた。容姿端麗のみならず、要領を得た人付き合いは、間近で見ていても感心してしまうくらいだ。決して媚びることはしない、愛想はあるが愛嬌を振りまくタイプでもない。だが、彼女は人を見分ける天賦の才があり、彼女の周りには有力な人達がいつも自然と集まっている。時折、彼女の魅惑な瞳と笑顔に、彼女の天賦とは関係なく勘違いをしてしまう例外な男性も寄っては来るのは、正直迷惑だ。
 
 そんな完璧な妻を持つ自分は、いつでも彼女に選ばれ側にいる男性としての自分磨きを怠らず、仮に妻が他の男性と比べて自分が劣ると感じたら、それは自分自身の磨く努力が足りなかった結果と受け止め、それで彼女にとって必要のない存在になるのであれば、それは仕方がないことだと自分でも思う。もちろん、そう思われることが無いように、常に自分をアップデートしていけば良いだけだ。

 これまでも、彼女と出会ってから恋人として付き合うに至るまで、そして、彼女と結婚するにあたっても、彼女の世界における不穏分子(ライバル)の一切を排除してきた。だから、今の彼女との生活があるわけで、それは、これからも同じだと思っている。

 そう思って彼女と付き合い、2年目でプロポーズし、それから3年目の結婚を迎える訳だが、それが今、何故か彼女が見えなくなっている。
 彼女にプロポーズした時のことを思い出し、目を瞑ると、今でも鮮明にあの日のことが蘇る。月が美しく輝く夜の海岸で、月明かりに淡く照らされた彼女はとても美しくて、その横顔に見惚れていたら「紗枝、僕と結婚してくれないか」と自然に言葉が出てしまった。彼女はその言葉に驚くこともなく笑顔で答えてくれた。あの時の彼女の笑顔は、絶対に忘れられない。

 彼女が何か特別に変わったというわけでもないし、なんなら、以前と何も変わらず普段通りの彼女なのだが、何も変わっていない筈なのに、何故か彼女との距離を感じることが時々ある。そんな距離を感じ始めたのは、新緑から零れる陽射しが眩しくなり始めて間もなく、紫陽花が綺麗に咲き日々雨が降り続き始めた頃ぐらいからだろうか。

 春先に彼女が、企画職から営業職に所属が変わったことが原因かもしれない。入社時に希望していた企画職に就き、以来ずっと同じその職種だったが、辞令で営業職に変わったことで気持ち的に少し落ち込んでいたのは事実である。それと同時に、定期的に開催されるセミナーやイベントなどの会合に参加することも多くなり、取引先との付き合いもあって、帰宅が遅くなることもしばしばあった。
 
 出来る限り、彼女の負担を減らそうと家事は自分が主にやっているし、疲れて帰宅してくる彼女を気遣い、不安はあるものの余計な詮索はせずに、出来る限り彼女の雰囲気を察してやってきたつもりだ。今朝も妻の為に朝食を用意し、その片付けまで全部済ませた。妻は「いつもありがとう」とだけ言って一足先に出かけてしまった。気になることと言えば、彼女は最近食欲がないせいか、あまり食べない。テーブルを片付けている時、彼女のお皿に半分以上残った朝食が目についた。“大丈夫だろうか・・・”最近の彼女は、作っても半分以上残すことが多い。「作った食事、美味しくなかったのかな・・・」残った彼女の朝食をゴミ箱に捨てた。
 そして、そんなモヤモヤした気分を抱え、今日もまた会社に行かなければならない。

 「もう定時か、早いな」オフィスで働くスタッフが帰り支度をしている音で気が付いた。
 「羽田さん、たまには一緒にどうです?」
 パーテーション越しに最近入社してきた今井俊介が声をかけてきた。
 “今日も紗枝は帰りが遅いのだろうか?”真っ先に、そのことが頭に浮かんできた。
 「どうしました、羽田さん?」今井が、不思議そうな顔をして訊いてくる。
 「あ、いやなんでもない。行きましょうか」紗枝は今日も遅いだろう、そう思って彼の誘いに乗ることにした。
 「じゃあ、先に降りていますね。下のホールで待っています」そういうと、今井は先にエレベーターホールへ向かった。
 「オッケー」と返事をすると、自分もPCのデータをセーブしてさっさと出る準備を始めた。

 会社を出て、駅に向かう途中にあるビアダイニングに入ると、ジョッキ一杯入ったビールを嗜む。
 「美味いな」皮肉なことに、どんな気分で飲んでも最初の一杯目のビールは美味い。
 「羽田さん、ビールが美味いっている顔じゃないですね」そう言って今井は笑った。
 一杯目のビールを一気に半分くらいまで飲んで、その美味さを堪能しながら今井に尋ねた。
 「羽田さんって、結婚されていますよね。何年目になるんですか?」
 「3年目かな。今井さんは、独身だっけ?」
 「浮いた話はないですよ。彼女もいませんし」
 「あ、なんかごめん」今井に申し訳ないこと訊いてしまっただろうか。
 「やだなあ、あやまらないでくださいよ。気にしていません、でもないか」苦々しく笑いながらビールを飲んだ。
 「いえ、ここの会社に来る前まで彼女と同棲していたんですが、別れてしまって」
 「あー、うん、辛いよな、それは。でもさ、出ていったんだから、もう仕方ないじゃん。諦めよう」半分まで飲んだビールジョッキを今井に差し出し、乾杯のポーズをとる。
 「えっ、なんの乾杯ですか?」笑いながら、乾杯などせず、手に持っていたビールジョッキを再び口に運んだ。
 「で、話したい気分なんでしょ?」
 「別に話したくもありませんが、聞きたいならお話しましょうか?」酒の肴になると思ったのか、今井は別れた彼女とのストーリーを話し始めた。

 彼には一緒に住んでいた彼女がいた。そのまま彼女と結婚するのだと思っていたのだが、夏の終わる時期に破局し、彼女は家を出て行ってしまったらしい。以来、彼は、彼自身何が悪かったのか分からず、何故彼女はあっさりと家を出て行ったのか理由も分からず、そんな彼女のとのことで落ち込んでいた時期があったそうだ。今はウチの会社に転職してきて、希望通りの仕事が出来ていることに満足しているらしい。
 「当面色恋は、遠慮しておきます。今は仕事に集中したいので。そういう羽田さんは、どなんです? 3年目のなんちゃらとか言いますし」
 「浮気なんてしないよ。でも、まあ、どうかな・・・」
 酒の肴で今井の話しで盛り上がるのかと思いきや、今夜はアルコールを入れ過ぎたせいだろうか、話の中心は自分の事になってしまった・・・。
 「今まで上手くいっていたし、自分に悪かったところがあるなら、彼女も言ってくれれば良いのに、そういう素振りも感じもない」何杯目かになるビールを飲み干し、ジョッキをテーブルに置き「もうわけわからん!」と、叫んだ。お店に迷惑にならない程度の声量で。
 「その、奥さんとの何が分からないんですか? 話を聞く限りでは、羽田さんの考え過ぎなんじゃないかと」
 「距離感だよ、距離感。前は何でもないことが、今は気を遣うというか、遠慮してしまうというか。とにかく、近いようで遠くに感じるんだよね、彼女が・・・」
 こればかりは他人にいくら説明しても、通じない。夫婦間のことは他人には見えないし、幾ら言葉で説明しても理解できるものではないだろう。
 「その、環境的なところで奥さんに変化があったとか?」
 「最近仕事で忙しいとは言うけど、具体的には何が忙しいのかわからないなあ。確かに、企画職から営業職になったから、そりゃ内勤と外勤とじゃ違うだろうし、ましては営業職になって対外的な会合とかも行くようになったから。それは、それで理解しているけど」
 「他に男が出来たのかな、だとしたらショックだなあ」ふと思ったことを口に出してしまった。
 「まさか、そんなことないでしょう」と苦笑しながら、今井は返答に困っている様子だった。

 普段ならプライベートな会話は当り障りない程度で済ませるのに、今日は多くを語ってしまっている様だ。その後の会話は仕事の話など無難な内容を意識的に選び、プライベートに関わる話を避けて飲み続けた。

 色々と話が思った以上に盛り上がり、割と遅くまで飲んで帰宅したのだが、妻はまだ帰っていなかった。携帯のメッセージや通話履歴を確認したが、妻からの遅くなるとか連絡は入っていない。
 
 シャワーを浴び終え、冷蔵庫から取ってきたスパークリングウォーターの栓をあけると、リビングのソファーに座り、改めて時計の時刻を確認する。終電はとっくに終わっている時間だ。
 すると、玄関のドアが開く音が聞こえた。妻が帰ってきたのだろう。妻がリビング入ってくると、ソファーに座っている自分を見て、少し驚いた様子で「まだ起きていたの?」と、聞いてきた。
 「いや、自分も同僚と終電近くまで飲んできてさ。それで、シャワー浴びたら、こんな時間」
と言って、時計の方を指で差した。
 妻は「そうだったの。シャワー浴びてくるね」と言って、風呂場に行ってしまった。妻はお酒を飲んできた様子は感じられない。
 “飲んでもいないのに、こんな時間。しかも終電はとっくに終わっている”ついつい、勘ぐってしまう。「仕事で遅かったに違いない。どうかしているな、オレ」頭の中の邪念を振り払い、彼女がシャワーを浴び終えたら食事は済ませてあるか訊いてみるか。そう思って、冷蔵庫の中の食材を確認しようとキッチンに行こうとソファーから立ったら、丁度シャワーを浴びて終えてリビングに入って来た妻と鉢合わせになった。
 彼女の使っている甘いリンスの香りとパジャマ一枚の姿にそそられ、欲求に駆られて思わず彼女を抱きしめようとした時、彼女は驚いて身をよけると「ちょっと体調がすぐれないの、ごめんなさい」と、無理に笑顔を作って、その場をそっと離れ寝室に行ってしまった。リビングに一人残された自分は、何だか惨めな気持ちだった。

 最近、妻は自宅にいる時、携帯電話を良く眺めている。そして、小刻みに携帯の持つ手の指を画面上で動かしているので、誰かとメッセージの遣り取りだろうと容易に想像できる。時折、彼女が何かしらを考えながら左手薬指の指輪を見つめ、指輪をつけている手の親指で指輪を触れていることに気付いていたが、それらは全て見て見ぬふりをしていた。
 そんな彼女の行動から、自分以外の男性に気持ちが向き始めているのではないか、という疑念を持ち始めていた。
 所謂、夫婦のコミュニケーションは、ここ二、三か月はない。あの晩の夜、彼女が遅くに帰宅した時以来、自分はどうしてもそういう気持ちになれないし、妻の方からはさっぱりと、そういう雰囲気は無くなっている。

 “どうすればいい?”

 もし今、彼女の目の前に自分よりも優れた男性が現れ、彼女が心を奪われたのだとしたら、それは仕方がないことだと思う。何故なら、自分も同じ様に今に至るまで、彼女にとって最も優れた男性として、ライバルを蹴散らしてきた。それ故に、彼女と一緒の時を過ごすことができたのだ。
 地球誕生以来、生物はそうやってより優れた遺伝子を取り込み進化し生存競争に勝って生き残ってきたのだ。だから、こういうのは本能なんじゃないかと思う。
 彼女を愛している。だから、彼女の微妙な仕草や誰も気づかない声のトーンに到るまで、気持の変化が分ってしまう。
 そして、それに気づき幾ら何をしようとも、彼女の気持ちを支配し自分へ留まらせようとすることはできない。自分も人間であり感情がある様に、誰であろうと人の心や気持ちを拘束することはできないし、人の意思や想いを物理的に書き換えする手段はないと思う。
 仮に、洗脳で思い通りに心を操り、意中の人を振り向かせることができたとしても、それは、その洗脳された人自身による自発的な行動ではないので、そこに、情熱や感情もなく、単に入れ物としての良くできた人形と何ら変わらないだろう。
 自分は、彼女の過去も今も、そしてこれからも、彼女の考え方も何もかもが好きだ。その彼女が選ぶ男性なら、きっと素晴らしい男性に違いないと思う。

 だからこそ、彼女を取られたくないなら、彼女の目の前にいる男性の中で自分が彼女の一番になればいい。彼女の気持ちを引き留めるには、彼女に何か直接働きかけるのではなく、自分自身を磨く鍛錬を怠らず自分を努力し続ける、それだけだ。

 “これからは、彼女問いただすこともしないし、もう何も言うまい”



 そんなことがあってから、一年が過ぎた。
 ある秋晴れの日、紅や黄色で鮮やかな色の樹木に囲まれた池の中に建つ洋館のテラス席で、コーヒーを飲みながら午後のひと時を過ごしている。その向かい側の席には、温かいカフェインフリーのティーをゆっくりと飲みながら、ますます魅力を増した彼女が読書をしている。
 一年前のあの時から、自分たちの夫婦関係は何も変わらず続いている。あの時期の妻は、普通に仕事が忙しかっただけだった。ただ妻の体調がすぐれなかったことと、それに関わる思いもよらなかったことが一つだけあった。そのことに気づかなかったことが、自分を間違った方向へ導き思い悩ませた原因となった。

 秋の陽射しでキラリと輝く指輪をした彼女の手が、隣のベビーカーにいる赤ちゃんの頬をそっとなでると、ずれ落ちたブランケットを赤ちゃんの首元までかけ直してあげた。そんな妻と自分の子供を見ていると、自然と笑みがこぼれる。妻は、自分の視線に気付くと、眩い笑顔で自分に微笑み返してくる。

 これからも、努力を怠らず護り抜いて見せる。
 今、目の前にいる彼女と子供の為に。
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