あの時、一番好きだった君に。-恋恋し編-

 もうすぐ本格的な夏になるだろう今の時期、外に出ると生暖かい空気に包まれた。夜も更けた静けさの中に、虫の音が聞こえる。航河君は自転車通勤、私は電車通勤だ。一緒に帰る時は、2人で歩くか、見つかったら怒られるが、航河君の自転車に2人乗りしている。

「ごめん、お待たせ」
「全然。行こっか」
「うん」
「急ぐ? 歩いても平気?」
「大丈夫だよ。あ、チョコレートある。食べる?」
「もらう!」

 同じスピードで、家までの道を歩く。

「あ、やば。ちょっと溶けてるじゃんチョコレート……」
「包み半分剥がして口に突っ込めば大丈夫じゃない?」
「……そうしよ。失敗してもウェットティッシュあるしいっか」
「……俺失敗したわ、ウェットティッシュちょーだい」
「言い出しっぺなのに。はい、どうぞ」
「ありがと」

 この時期のチョコレートは危険だった。冷蔵庫に入っている時のような硬さはあいにく持ち合わせておらず、折ろうとすればフニャッと指の力を吸収してしまう。

(しまった、もう暑い日もあるから、鞄にチョコ入れておくのは危険だな……。下手したらチョコまみれになっちゃう)

 行儀が悪いが、食べながら帰るのは楽しい。何か満たされる気がする。

 ――ヴーヴヴ、ヴーヴヴ――ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。

 不意に、私の携帯が鳴った。

「あ、待って、電話」

 着信を見る。名前が出ない。知らない番号からだ。

(非通知でもないけど……。誰だろう……?)

「んー? ……誰だろ」
「分かんないなら出なくて良いんじゃない? 知ってる人とか企業で、用事あったら何度かかけてくるでしょ」
「だよね、なんか怖いし」
「時間も遅いしね」

 かかってきた電話は取らず、ポケットに携帯をしまう。すると、電話は切れ、少ししてから再度鳴った。

 ――ヴーヴヴ、ヴーヴヴ――ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。

「あれ、また……。さっきの番号だ」
「出てみる? 本当に知り合いかもしれないし、悪戯だったら俺代わるし。男の方がこういう時強いっしょ」
「ありがと。出てみる」

 ドキドキしながら、通話ボタンを押した。

「……もしもし」
『もしもし? 千景ちゃん?』
「……はい」

(えっ、知り合い?)

 男性の声がスピーカーから聞こえた。多分、大人だろう。

『分かんない? 俺だよ、早瀬』
「……え!? 早瀬さん」

 驚いて大きな声を出してしまった。

『驚いた?』

 驚くに決まっている。私は早瀬さんに電話番号を教えていないし、先日渡された名刺に書かれた番号に、電話もしていないのだから。
 歓迎会でのやりとりもあるし、航河君はもちろん、広絵や相崎さんも私の許可無しに、勝手に連絡先を早瀬さんに教えたりはしないだろう。

(えっ……えっ!? どうして……。どうして早瀬さんが私の番号知ってるの!?)

 予想外の出来事に、身体が硬まる。何か言おうにも、言葉が出てこない。

『千景ちゃん? もしもし?』
「――千景さん? どうしたの?」

 少し強めの航河君の声にハッとする。

「あ……えっと」
『聞こえてる? 大丈夫?』
「だ、大丈夫です」

 あまり大丈夫ではないが、早瀬さんに動揺が知られてはいけないと思い、平気な振りをした。

『いやさ、名刺渡したのに千景ちゃん全然携帯に連絡くれないからさ』
「ごめんなさい、その、なかなか……」
『別に構わないよ。かかって来ないなら、こっちからかければ良いんだし』
「あの、その、私の番号……」
『あぁ、分からなかったから、店にしまってあった履歴書見て掛けた』
「え?」

 まさかの回答だった。履歴書を見て掛けてくるなんて。仕事の用事があってなら分かるが、電話番号のやり取りがあってのこの電話だ。きっと、仕事ではない。個人情報とは一体何なのだ。背中に悪寒が走る。この、言葉にし難い恐怖に。

『仕事でも一緒にならないし、声かけられなくて。――ところでさ、ご飯、いつにする?』
「……ご飯……ですか?」
『そうだよ、前話したでしょ?』
「冗談、ではなくて?」
『やだなぁ。冗談だったら、番号書いた名刺渡したりしないよ』
「あ、あはは、そうですよね…」

(いや、いやいやいや。控えめに言っても怖いんですが……?)

 冗談だと思っていた。いや、冗談だと思うようにしていた。男性と2人で、しかも色々言われている社員さんと。気を遣うだろうし、乗り気ではなかった。だから、電話もかけないようにしていたし、この1週間、仕事で同じになったらどうしようかと思っていたが、早瀬さんがいなくてホッとしていたというのに。電話もせず、誰かに話も振らず。その苦労が、一瞬で無駄になるなんて。

「千景さん? ねぇ?」

 航河君がこちらを覗く。

「あ、と、ちょ、ちょっと待っててもらって良いですか?」
『良いよ良いよ、予定でも確認するのかな?』

 マイク部分を手で塞ぎ、携帯を下におろす。

「どうしよう……早瀬さんからの電話なんだけど」
「……聞こえてたけどさぁ。 連絡先、交換したの?」
「してない。一方的に携帯書いた名刺はもらった、一週間前に」
「誰かに聞いたってこと? 俺聞かれたけど、『知らない』って言った」

(やっぱり聞いてたんだ……)

 もしかしたら、他の人も聞かれていたかもしれない。その場合は、誰も答えなかったということだろう。
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