静かなる躾
狡猾なファルセット
どんな手を使ってでもいい、スクープを撮ってこい。手段は選ばない。
あの頃は雛が生まれて初めて見た鳥を親と勘違いする、所謂刷り込みが私の身体にも起こっていた。好奇心と狡猾さを惜しげもなく晒していた私の元上司。ゴシップ記者など胡散臭い人間の集まりだが、私の元上司は思考深く、他人の懐に入るのが上手かった。暇潰しに寝たこともある。
信頼してはいけない人間だと確信していたが、あの頃の私には元上司を親だと勘違いしてしまえるだけの脆弱さがあった。他人のゴシップで飯を食うだけのただの虫ケラで、何歳も年上の薄汚い男に股を開けるだけのくずだった。
私は目の前にぶら下がるサンドバッグを思い切り殴り付ける。
「おぉ。ナイスパンチ。ナックルパートでうまく打っているじゃん」
コーチの言葉を無視して、私はもう一度左ストレートを放つ。サンドバッグが揺れる。私は何度かそれを繰り返し、気が済むまでサンドバッグを殴り続けた。怒りに身を任せると今度は違う欲求が生まれるからおかしい。煙草が吸いたくなった。私はグローブを外す。
「今日はやけに気合いが入っていたけど、どうした?」
「……腹立つことがあって」
「今日はいいけれどあまり怒りでフォームを壊さないようにね」
コーチから手渡されるペットボトル。くん、と喉を鳴らしながら中にある水を飲み干した。
ここは芸能人も御用達の会員制ボクシングジム。予約制でマンツーマンが決まりのここはコネが無ければ入れない場所だった。凛くんの紹介でこのボクシングジムに入会した私はストレス発散に今日みたく度々訪れている。
男性のコーチは柔和な笑みを浮かべ、私に優しく注意してくる。逞しい筋肉を持つこのコーチは確か、WBO世界スーパーフライ級チャンピオンだったはずだ。ドーピング疑惑が浮上して、彼は表舞台から姿を消した。
そのドーピング疑惑を書いた週刊誌は『ファースト』だ。
「どうする? まだ時間あるけどまだ殴っていく?」
「いえ。帰ります」
私はコーチにグローブを返し、脱いだスウェットを着る。持ってきたタオルで汗を拭うと荷物を持ち、コーチに背を向けた。
帰宅したら新しいアルバムの制作をしなければならない。剛くんから4曲ほど新しい詩が欲しいと頼まれている。4曲欲しいと言われたら、少なくとも12曲ほどは作らなければならない。それが経験上、剛くんの要望に完璧に答えられる数だった。彼が私に求めるクオリティーは年々増加している。
「……なんでこの女がここにいる?」
部屋から出ようとドアノブに手を掛けたときだ。そんな声が聞こえてきた。
業くんは私が犯した罪を知っているようだし、この男とは顔を合わせるし、最近は厄日でしかないな。
一ノ瀬 雅が瞳を研いで私を睨みつけている。