交際0日ですが、鴛鴦の契りを結びます ~クールな旦那様と愛妻契約~
「ああ、そうだな。 だが俺は――」

一織さんは否定しなかった。私の知らない彼が扉の向こうにいた。
静かにその場を離れ、エレベーターを呼び戻す。

下まで降りて、さっきの受付のお姉さんに封筒を預けた。
一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐにデフォルトの笑顔に戻って了承してくれたのでさすがプロだ。

マンションに帰ってきても、さっき聞いてしまった話が頭から離れない。

一織さんは、仕事を円滑に進めるために結婚したがっていた。
彼が私を選んだのは、会社関係の他の女性とは違って素の自分で出会い、お節介を焼いた私の人柄に惹かれたんだと話してくれた。

でも、違ったということ…?
彼には、私でなくてはいけない他の事情があったのだ。
最初から、私の第一印象が気に入ったのでも、古嵐定食のお弁当が美味しかったからでもなく、一織さんのお祖父様に言いつけられて……

そこまで考えて、ふるふると頭を振った。

全部を聞いたわけでもないのに、マイナスな方向にばかり考えてしまう。
嘘をついて、私に隠してまで結婚したかった理由はなんだろう。
きっと、私には知り得ない事情があるのだろうとは思う。
でも、それを私は知ってはいけなかったのだろうか。
本物の夫婦になろうと言った時、頷いてくれた彼の本心は?

私たちは、少しずつ夫婦に近づいていると思っていた。
それは私だけだったの…?

知りたいけど知りたくない。一織さんの本当の気持ち。どうしても、私にキスをした時の真剣な瞳を信じたい。

だけど今一織さんに会ったら、八つ当たりしてしまうかもしれない。
なんで私に隠し事をしたのか。昨日のキスはなんだったのか。
…あなたは今、何を考えているの?

モヤモヤぐるぐると止まらない思考を振り払いたくて、気づいたらマンションを出ていた。
無事に書類は受け取れただろうか。会議に間に合っただろうか。

今日は一日に何度も電車に乗っている。

一織さんの会社に行くと言ってそのまま帰るだろうと思っていた娘が再び顔を出したので、両親は驚いていた。
でも、話そうとしない私を見てふたりは何も聞かないでいてくれるのにほっとした。

帰宅して私が居なかったら驚くだろうから書き置きをしてきたので、それを見たら何かしら連絡が来るかと思っていたのに、届いたメッセージを見て一気に力が抜けた。

『トラブルが起きて、今夜は帰れそうにない』
『戸締りしっかりして、ベッドで寝ているんだぞ』

なんだ。じゃあ、実家に帰ってこなくても今日は顔を合わせずに済んだのか。

今日は泊まって、そのまま午後から仕事、明日はマンションに帰ればいい。
実家に帰ってるなんて突然言ったら、彼に余計な煩いをかけてしまうかもと思って、了解の旨と体を労るスタンプを送るだけにした。

ありがとう、とまた返信が来て、私は瞼を閉じた。




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