二人でお酒を飲みたいね。

第3章

 それにしても物音一つしない。 一応、この辺りは住宅街なのに、、、。
それほどにみんな、周りに気を使って生きているのだろうか? 恐ろしい社会だ。
向こう三軒両隣と言って昔は開けっ広げな人が多かった。 玄関を覗いて誰か居ると分かれば上がり込んでお喋りをした。
醤油や味噌が無くなると料理中でも構わずに声を掛けて借り合っていた。
少々留守にしても鍵なんて掛けなかった。 不用心だと言われればそれまでだが、、、。
 でもいつからだろう? 隣との付き合いを人々は敬遠するようになった。 誰が住んでいるのかすら知らないし、知ろうともしない。
だから行政は緊急通報システムなる物を作らなければいけなくなった。
同時に小家族が増えて地域ユニットが崩壊してしまった。 そしておかしな事件が増えてきた。
 行方不明者は年に8万人とも言われる時代である。 ハイテクばかりに頼るのではなくてもう少し人間の心に頼りたいものだね。

 山に行けば行方不明者の骨が出てくるような話だって聞いたことが有る。 だったらご近所さんでなんとかしたらいいじゃないか。
でも人は体裁ばかり気にしている。 少しでも変だと思えば誰も寄り付かない。
老人だとか障碍者だとかいうだけで地域の人々は遠目で見ようとする。 情けない日本だね。
いくら元気で居たって誰もがいつかは弱くなる。 年を取る。
どんなに若いつもりで居ても年には適わない。 そうじゃないか?
 静かすぎる住宅街の一角に俺の家が有る。 康子と暮らし始めた時に借りた家だ。
ここの大家も先代が死んでしまって今は二代目。
「家賃は口座振替にしましょう。」って言って来てからもう7年。
年末に一度顔を出すだけで忙しいとか何とか言って遊びにも来ない。 これでいいのかね?
 尚子は疲れた体を椅子に預けてスマホを覗いている。 ゲームをしているらしい。
俺はそんなの興味も無いから寝室でゴロゴロ、、、。 春風が微妙に気持ちいい。
思えばまだ春だったんだ。 4月だよな。
本当なら新入社員を受け入れて活気付いている頃だ。 でも数年、求人票を出してないから新人さんは入ってこない。
その代わりにやたらと配置換えをする。 これじゃあストレスも溜まるよ。
仲良しばかりじゃないんだからね。 その中で虐めも聞いてはいた。
一日中、無視され続けるって話も聞いてはいた。 でも誰も本気にはしなかった。
その挙句の事件だ。 管理職になればなるほどショックは大きいだろう。
社長の沼井正はこれからどうするんだろうか?
 考え事をしているうちに俺は寝てしまっていた。 気付くと尚子が隣に居る。
「どうしたの?」 「どうしたのって、、、もう4時半ですよ。」
「そんな時間なの?」 「気持ちよさそうに寝てるんだもん。 起こせなかったわよ。」
尚子は苦笑している。 起き上がると俺はシャワーを浴びた。
そこへガタンと扉が開いて尚子が入ってきた。 「おいおい、、、。」
「ダメですか?」 「い、いや、、、いいよ。」
「本当は嬉しいんでしょう? 裸が見れるから。」 「いやいやいや、、、。」
「ごまかしたって分かりますよ。 目が笑ってるからねえ。」 「あぐ、、、。」
鋭い女だな。 これじゃあ嘘は吐けないぞ。
 一応の身支度を整えて二人揃って外へ出る。 「今夜は別々のお店で飲むのねえ。 なんか寂しいわ。」
「でもまあ、また来ればいいじゃない。 待ってるから。」 「いいの? 待っててくれるんだ。 やったあ。」
小さなガッツポーズを見せて俺たちは別々のタクシーへ。 そして、、、。

 ここは駅前、尚子と初めて飲んだ丸一の前。 ラッシュアワーが始まって通りはいつになく賑やかである。
そこへ数人の男たちが歩いてきた。 「よう、高木君。 今夜は飲もうぜ。」
営業部のチーフリーダー 栄田博たちである。 俺がセンターに移る前は毎日のように顔を見合わせていた連中だ。
そのグループと話していると顔を隠した男が近付いてきた。 俺も栄田もその男には気付かなかった。
 店の前で談笑していると「危ない!」と叫ぶ声が聞こえた。 「ん?」
俺が振り向いた時だった。 その男が俺に向かってナイフをかざして飛び込んできたのだ。
「う、!」 「高木! 大丈夫か!」
森山孝弘が駆け寄ってきた。 「来るな! 刺されるぞ!」
栄田が男に飛び掛かっていく。 看板で応戦しているやつも居る。
間もなく救急車が呼ばれて俺は病院へ運ばれて行った。

 「緊急手術が必要だ。」 誰かの声が遠くで聞こえている。
俺はストラクチャーの上でぼんやりとしている。 鳩尾の辺りを刺されているらしい。
意識が薄れていく中でまた誰かの声が聞こえた。 「死ぬんじゃないわよ。 あなたは生きるのよ。」
誰だか分からないが、その声ははっきりと聞こえていた。 やがて俺は意識を失った。
 後から聞いた話だが、店の前で俺が差されたことで激励会は中止になった。 そしてその男のことも明らかにされてきた。
元管理部職員の柳原健太だった。 自殺したあいつの義理の兄である。
俺を管理部の人間だと思って刺したらしい。 迷惑な話だ。
 手術は長く掛かった。 大動脈を逸れていたことがせめてもの救いだった。
集中治療室に運ばれた俺は何とも言えない空間をさ迷っていた。 静かな静かな空間だ。
明るいわけでも暗いわけでもない。 ただただ何も無い空間が広がっている。
何かに触れている感触も無い。 暑くも寒くも無い。
(一体ここは何處なんだ? 一体全体、俺はどうなるんだ?) 複雑な思いが湧いてくる。
遠くのほうには花畑のような開けた場所が有る。 反対側にはどす黒い空間が有る。
音も何も無い。 有るのは空間だけである。
 「高木さん! 高木さん!」 誰かが俺を呼んでいる。
そちらへ行こうとすると別の声が聞こえてくる。 「そっちへ行くな! 戻ってこい!」
少しずつ歩いていると暗いトンネルが見えてきた。 その前に誰かが立っている。
「お前はまだ早い。 ここへ来るのはまだ早い。」 手を広げて俺を遮っている。
俺が迷っていると「あなたは生きるのよ。 まだ死なないの。 戻りなさい。」という女の声が聞こえた。
(母さんだ。 母さんが俺を諭しているんだ。) ようやく振り向いた時、、、。
「高木、高木、、、。」 俺を呼ぶ声が聞こえた。
 うっすらと目を開けてみる。 栄田が俺の顔を覗き込んでいた。
「気が付いたか。 やっと気が付いたか。」 あの事件から2週間が過ぎていた。
 「俺は、、、。」 「今は喋るな。 もう少し寝ていろ。」
「しかし、、、。」 「大丈夫だ。 康子さんも来てくれてるから。」
「康子が、、、?」 「そうだ。 あの後、すぐに連絡して来てもらった。 心配するな。」
栄田はそう言うと康子を枕元へ呼んだ。 「あなた、、、。」
泣き晴らしたであろう目が真っ赤になっている。 俺は安心して眠りに落ちた。
それにしても会社のほうが気掛かりだ。 自殺の後には殺人未遂事件。
これでは立ち直れる物も立ち直れなくなる。 みんなはどうするのだろう?
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