角砂糖が溶けるように

2-3 右下がりの括線

 友人たちと出かけることもないまま、家と大夢の往復で夏休みの三分の一が終わってしまった。宿題はほとんど片付けているが、分厚い数学の問題集には苦戦していた。ページの前半は一学期で習った単元、後半はこれから習う、未知の単元。

「そういえばそうだったな。生徒には予習の段階で理解させたいんだよ」
 大夢で麻奈美が問題集に向かっていると、平太郎がやってきた。
 かつて高校教師をしていた平太郎は、昔のことを思い出していた。
「理解できないよー。予習で理解できるって、頭良すぎだよ」
 夏休みの間も家庭教師は続いたので、浅岡にも見てもらった。大夢には芝原がいるが、彼は数学が苦手なので頼れなかった。
「本当に、あそこの先生は生徒を何だと思ってんだろうね」
「先生に家庭教師お願いして良かったぁ」

 なるべく自分の力で挑戦して、どうしてもわからないところは浅岡に助けてもらって、分厚い問題集もなんとか八月上旬には片付いた。
 なので、修二からの「宿題、手伝ってやろうか?」という電話も、あっさり断ることができた。入学当初は彼のほうが成績は上だったが、今は逆になっている。
「麻奈美がこんなに頑張るって、やっぱ家庭教師と何かあるんだな」
 登校日に教室で修二が顔を歪めたが、それはひとつも当たっていない。
「麻奈美ちゃんの家庭教師って、女子大生だよ」
 という千秋の言葉を聞いて、修二はほんの少し安心していた。

 その日の午後、麻奈美は友人たちと初めて一緒に遊んだ。近くの町まで電車で出かけて、ボーリングをして、カラオケに行った。そのあとは人気の喫茶店で休憩して、買い物をしてから帰宅。
 宿泊研修のときに話したことの続きや、クラブ活動のこと、趣味のこと。いろんなことをたくさん話して、麻奈美の心はすっきりしていた。

 もちろん、気になる大学生のことも聞かれたが、麻奈美ははっきり答えなかった。
 千秋と芳恵には、言ってしまおうと思うこともあった。
 自分一人で悩むなと、心配してくれた。
 けれど、麻奈美は彼の情報を公表する気にはなれなかった。
 自分が持っている『優しい、頼りになる』という良い面だけでは彼を知ったことにはならない気がしていた。そんな状態で言ってしまって、もしもの場合が怖い。
「言えるようになったらちゃんと言うから。ごめんね」
 芝原の過去が知りたい。
 幼稚園から今までずっと星城。しかし、平太郎や浅岡によれば、高校時代は手のかかる生徒だったらしい。生徒にはもちろん、教師にもものすごく厳しい星城で。
 麻奈美はお金のことはわからないが、星城の学費が高いことだけは理解していた。
 そこに二十年近く通う芝原は、いったいどういう人なのか。

「はぁ……」
「ん? どうしたの? ため息ついて」
 隣に浅岡がいることも忘れ、麻奈美は芝原のことを考えていた。
 夏休みの間も、家庭教師の時間は普段と同じだ。
「手も止まってるよ」
 解きかけの数学の問題は、分数を書きかけて止まっていた。分母の上に引かれた括線(かっせん)が、妙に右下がりになっている。
「先生……」
 麻奈美は持っていたペンを置いて、浅岡のほうを見た。
「なにか、隠してませんか?」
 浅岡と平太郎に共通していることは、芝原について尋ねると必ず硬くなる。
 必ずいくらか間があって、すぐに返事はない。
 麻奈美が詳しく聞いていないのに浅岡が硬くなったのは、どこかで芝原のことを考えていたからだろう。
「隠してる、っていうより、私には言えないの」
 持っていた本を閉じて、浅岡は続けた。
「芝原は──中学で出会った頃は、普通だったのよ。それがだんだん別人になって……あんまり良い噂は聞かなかった。でも、高校の間に元に戻って、今は、麻奈美ちゃんが思ってるような、良い人よ」
「別人って……何があったんですか」
 麻奈美が今、一番知りたいことだ。

「それは私には言えない。口止めされてるんじゃないのよ。平太郎さんが教えてくれないのも一緒かな。でもきっと、いつか芝原は教えてくれると思うよ。あいつは本当に良い奴だから、隠し事なんて似合わない。でしょ」
「うーん……」
「まだあいつと出会って数カ月でしょ? 知らないこと多くて当然だよ」
「そう、ですけど……」
「まぁ、私の勘だと、一年以内に教えてくれるかな。それか、麻奈美ちゃんが先に気づくかもね。さ、休憩終わり!」
「えっ、どういう──」
 しかし浅岡は麻奈美の言葉をさえぎって、数学の勉強を始めた。
 一年以内という意味がわからず、麻奈美は勉強に集中できなかった。
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