角砂糖が溶けるように

7-4 職員室の前で

 気にしたことはない、と言えば、それは嘘だ。
 自分が生徒だった頃は、周りからの評判を気にすることはほとんどなかった。それは、僕が良い生徒ではなかったからで、本当は、人気だったらしい。
「普段は怖くて近付けないけど、大人しくしてるとかっこいい、って友達が言ってたわ」
 と、浅岡から聞いたことがある。
 実際、高校の卒業式の時は、男友達はもちろん、ほとんど話したことがなかったような女子生徒まで一緒に写真に写って欲しいと何人も言いにきた。出来あがった写真は見ていないし誰が来たかも覚えていない。けれど、とにかく、女の子に囲まれていた記憶だけはある。
 好きな人がいるから気にしなかっただけで、学生時代もそうだったのかもしれない。
 麻奈美たちが大学見学に来た日も補助をしながら、教育実習の時も授業をしながら、校内で歩いているだけでも、なんとなくそんな気はしていた。
 こんなことなら、真面目にしていれば良かった、と本当に思う。
 そんなことを大夢で呟くと、
「でも、君はずっと気になってる人がいるんだろう? 来た道を振り返るな。後悔するより、前を向いて歩きなさい」
 と、平太郎に言われた。
 そして決心がついた。ずっと気になっている人にはまだ何も伝えていないが、きちんと言うことに決めた──時が来たら。
 だから、麻奈美の気持ちを受け入れることは出来なかった。
 嫌いではないし、むしろ好きだ。
 それは本人にも伝えてあるし、触れることにも、成り行きで許可をもらってある。学校を離れて大夢で会う時も、彼女は僕を『先生』と呼ぶようになったが、僕は学校の外では生徒としては捉えない。大夢の手伝いをしている女の子、としか思わない。
 けれど、麻奈美を彼女にするわけにはいかなかった。
 当然、僕が──許さなかった。

 それでもやはり、授業で麻奈美のクラスに行くときは、麻奈美の様子が気になった。親しい友人以外には僕のことは話していないようで、必要以上には僕のほうを見ない。他の先生に対してと同じように、僕のことも特に気にしていなかった。
 その代わり、別の生徒たちが、僕のところにやってきた。
 今日は三年生が、職員室に入ろうとしている僕の足を止めた。
「先生、私のこと、覚えてますか?」
「ええと、確か、実習の時に──」
 僕を担当してくれた先生のクラスに、彼女はいた。
 教卓に一番近い席にいたので、何度も話したことを覚えている。
「良かった。忘れてたらどうしようかと思いました」
「ははは。大丈夫、覚えてるから。今日は……質問?」
 違うことはわかっていた。
 けれど、他に言葉が見つからなかった。
 このまま職員室に入って行くのは、可哀想だろう。
「いえ……先生、いま、時間ありますか?」
「ごめん、今はないんだ。やることが多くて」
「放課後は?」
「うーん……どうかな。たぶん、ないと思うよ。ほとんどのクラスでテストしたから、答え合わせが山積みで」
 午前中の四クラスと午後の二クラス、今日だけで二百人ほどの解答用紙が机の上に積み上げられていた。赤ペンで丸をつけたあと、次の授業のことも考えないといけない。
 学校で片付けて帰るか、大夢でゆっくり考えるかは、まだ決めていないけれど。
「先生、もし、私が百点だったら、付き合ってください!」
「──気持ちだけもらっとくよ」
 何の話をしに来たのかは、最初からわかっていた。
 実習をしていた時も、何回も言われた。
「あれから、彼女できたんですか」
「いや。いないよ」
「それじゃ、候補に」
「前にも言ったと思うけど、候補なら、ずっと前からいるから。冷たいこと言うようだけど、本当のことだから。それから、僕も、他の先生たちと同じ──生徒と恋愛する気はない。卒業しても、関係は変わらない」
 言いきったとき、彼女はどこかへ走り出していた。
 きついことを言っただろうが、本当のことだから仕方がない。
 気持ちを切り替えて職員室に入ろうとすると、
「あんまりきついこと言うと、また嫌われるぞ」
 笑いながら、結構年老いた男性教師が近付いてきた。
 平太郎と出会う前の二年間、彼は僕の担任をしていた。
「先生、見てたんですか」
「見るも何も、職員室の前だからな」
「そう、でした……」
「それより芝原、いまの君の対応は適切だったが……彼女候補って、どんな子だ?」
「──それは、忘れてください」
「さっきの話の中で一番重要なことだろう?」
 先生はにやりと笑った。
「俺の知ってる子か? ずっと前って、いつからだ?」
「もう、だいぶ前ですよ。僕がここに通ってた頃から」
「ずいぶん長いんだな。ふむ……あの頃の君は、そんな一途な風には見えなかったけどな……」

 話をしながら職員室に入って行く二人の会話を、麻奈美と修二は聞いていた。到着したとき、走り去って行く女子生徒とすれ違った。
 隠れて聞くのは申し訳なかったが、出ていける雰囲気ではなかった。
 ガラガラ、と音がして職員室のドアが開くのと同時に、年老いた先生の声が聞こえた。
「もしかして、あの子か──おい、それは」
「──僕だって、そんなつもりは──もちろん、守りますよ。ただ、彼女は僕にとって──」
 校内のざわめきやドアの音に消され、詳しいことは聞き取れなかった。
 唯一わかったのは、芝原は、その人のことが、本当に好きだということ。しかもその人のことを、あの先生も知っていた。
「麻奈美……あんまり、気にするなよ。って、無理か……」
「うん……大丈夫、いつものことだから。気にしないって、決めてるから」
「なんなら、俺が慰めてやろうか?」
「──それは、いらない」
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