角砂糖が溶けるように

9-7 待ちわびた日

 麻奈美がまだ家に帰っていない。
 光恵からそう電話があったのは、麻奈美が大夢を出てから一時間も後のことだった。母親が待っているからすぐに帰ると言っていたので、もう着いて寛いでいると信じていた。
「芝原、すまんが──」
「必ず見つけます!」
 平太郎が頼むより早く、芝原は大夢を飛び出していた。
 既に辺りは暗くなって、外灯がなければ前は見えなかった。
 芝原は一旦、学校に戻った。
「誰か、卒業生の川瀬、見ませんでしたか?」
「川瀬がどうかしたのか?」
 麻奈美を見た、と言う先生は一人もいなかった。状況を簡単に説明して、麻奈美の友人宅に電話した。けれど、千秋の家にも、芳恵の家にも、修二の家にも麻奈美はいなかった。
「いったいどこで──」
 麻奈美が居そうな場所をすべて回っても、どこにも姿はなかった。
 立ち寄れそうなお店は住宅街にはない。
 芝原は一度、麻奈美の家へ行った。昨日のことで光恵は不機嫌そうな顔をしていたが、本当のことを話すと、「早く見つけてちょうだいね」と芝原を笑顔で送り出した。
 自分の腕時計は暗くて見えないので、近くの公園の電光時計を見た。
「もう、八時か……」
 時計の明かりに誘われて、小さな虫が集まってきていた。風も出てきて気温も下がり、ザザザ、と木々が揺れた。
 麻奈美はそういえば、お化けが嫌いだったな、と芝原は思い出した。
 こんなところにはいないだろう、と公園から出ようとした時。近くにあったベンチに麻奈美の姿を見つけた。制服のまま荷物を持って、顔を隠して眠っていた。
「麻奈美ちゃん、風邪ひくから、起きて!」
 何回か肩を揺らしていると、麻奈美はゆっくり顔を上げた。そして状況を理解すると、立ちあがって逃げようとした。芝原は慌てて腕を掴んだ。
「待って、僕の話を聞いてほしい。昨日のことで傷ついたなら謝るよ、ごめん。でも、浅岡とは本当に、麻奈美ちゃんが心配するようなことは何もない。浅岡も僕の気持ちを知ってる」
「それじゃ、昨日は……何してたんですか」
「昨日は──女性としての意見をもらってた。男の僕には、よくわからないから……」
 麻奈美はもう逃げないだろうと判断してから、芝原は麻奈美の腕を離した。
 それから自分の荷物の中から、大切なものを取り出した。
「受け取ってもらえるかな。高校の卒業祝い。もちろん──個人的な」
 暗くてよくわからなかったけれど、麻奈美は包みの一点を見つめていた。浅岡といるところを目撃された、あの雑貨屋の名前だった。
 麻奈美は戸惑いながら、それを受け取った。
「……開けても良いですか?」
「うん。もちろん」
 先ほどのベンチに戻って包みを開ける麻奈美の隣で、芝原は言った。
「何が良いのか、ずっと悩んでたんだよ。まだ学生を続けるから文具が良いかなとか、制服は無くなってお洒落するだろうからアクセサリーが良いかなとか……でもやっぱり、麻奈美ちゃんには、それしかなかったよ」
 包装紙の中から現れたエプロンに麻奈美は少しだけ明るくなった。
「これ、昨日……浅岡先生と?」
「うん。浅岡には意見をもらっただけで、決めたのは僕だよ。麻奈美ちゃんにはずっと、大夢に居てほしいから」
 エプロンを膝の上で広げ、麻奈美は細部を見た。目も暗さに慣れてきたのか、模様も見えているらしい。
 麻奈美はエプロンを自分の体に当ててみた。
「先生──ごめんなさい、私、誤解してて」
「謝らなくて良いよ。あの状況じゃ、誰だってそう思う」
 麻奈美は俯き、鞄の中からハンカチを出した。そして涙を拭いてから芝原に笑顔を見せた。
「ありがとうございます! 明日から使います!」
 芝原は麻奈美の頭に片手を伸ばし、ぽんぽん、としてから抱き寄せた。
 そして一つの決心をしてから、再び口を開いた。
「秋頃──最初に誰かに見られたとき、浅岡から連絡があったんだ。あいつ、四月から海外に転勤だって」
「えっ、どこですか、っていうか、どうして教えてくれなかったんですか」
「僕は言おうと思ったんだよ。でも浅岡が、麻奈美ちゃんは受験生だから、余計な心配をさせるな、って。受験が終わるまで黙ってろって言われたんだ。ごめんね、言うタイミングがなくて……。それから」
 言葉を切って、芝原は麻奈美を見つめた。
 あまりに距離が近いからか、麻奈美は照れて逃げようとした。もちろん、芝原の腕に抱かれたままなので、どこにも逃げられないのだけれど。
「な、なに……?」
「ごめん。ずっと待たせて──もういい加減、待てないよね」
 芝原が何の話をしているのか、麻奈美はすぐにピンときた。
「待ちたくないです。もう……嫌な想いはしたくない。昨日のことで、余計……これ以上待たされるなら、もう、いっそ」
「もう良いんだ。もう待たなくて良い」
 麻奈美が言葉の意味を理解できずにいると、芝原は麻奈美を離して座りなおした。そして改めて麻奈美を見つめた。
「僕の──彼女になってくれますか」
「え……は……」
 麻奈美はそのまま俯いてしまったけれど。しばらくしてから、ははは、という声が聞こえた。溢れる涙を拭いながら、麻奈美は笑っていた。
「もう絶対、嫌な想いはさせないから」
 芝原が麻奈美を両腕で抱きしめると、麻奈美も恐る恐る彼の背中に腕を回した。そして真下から見上げる麻奈美がとても可愛くて、芝原はそのまま唇を重ねた。麻奈美は恐らく初めてなので、軽いのを何度か繰り返した。
 離れてからの麻奈美の照れた顔は、きっと一生忘れない。
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