角砂糖が溶けるように

1-8 予想外の客人

 学校の宿泊研修から帰ったその日、麻奈美は大夢には行かずに家でのんびりしていた。いつも学校から帰ると大夢に行っていたので、家族と過ごす時間があまりなかった。本当は平太郎は麻奈美が来ることを予定していたのだが、天気が悪いので家で休むようにと、光恵に電話が入っていた。

「学校はどう? 勉強、やっていけそう?」
 キッチンでは光恵が晩ご飯の支度をしていた。今日のメニューはナポリタンだ。野菜と一緒に炒めるベーコンの香りがとても香ばしい。
「んー……まぁなんとか。浅岡先生にも見てもらってるし、大丈夫だよ」
「それなら良かった。友達もいるみたいだし、心配はないのね」

 光恵は湯がいていた麺をフライパンに加え、ある程度馴染ませてからケチャップを入れた。普段から料理の好きな光恵だが、今日は心なしか楽しそうだ。
「お母さん、なんか良いことあったの?」
「実はね、お父さんが会社の社員旅行でハワイに行くんだって。家族も一緒に連れて行ってくれるみたいだから、行こうと思ってるの」
「ふぅん。いつ?」
「えーっとね……八月下旬だったかな? 一週間」
 そう言ってから、光恵はサイドボードの引き出しから行程表を取りだした。お盆の忙しい時期を外して、八月下旬に六泊七日のスケジュールが組まれていた。
「おじいちゃんには言ってあるの。麻奈美を泊めてください、って」
「えっ、お店に?」
「夏休みだし、ずっと勉強してるわけじゃないんでしょ? どうせ手伝いに行くんだから、良いじゃない」

 いつの間にかナポリタンは完成していて、家族三人分に取り分けられた。土曜日なので本来なら家庭教師のある日だが、今日は麻奈美が疲れているので中止していた。父親は仕事に出ていたが、平日より数時間早くに帰宅した。
 そしてやはり、と言うべきか、夕食の席では両親のハワイ旅行の話になった。
 二人の新婚旅行がハワイだったのは麻奈美も知っていたし、特に家にいてほしい用事もなかったので、反対はしなかった。

 晩ご飯の後片付けも終わり、テレビを見ながらくつろいでいるとき、麻奈美はふと思い出したことがあって口を開いた。父親は、入浴中だ。
「ねぇ、お母さん、芝原さんって大学生、知ってる?」
 突然の質問に、光恵は一瞬きょとんとしていた。
「芝原さん? 女性? 男性? うーん……知らないわねぇ」
 やはり、芝原は平太郎だけの知人であって、川瀬家とは関わりがないようだ。

「その人がどうかしたの?」
「店のお客さんなんだけどね……こないだ初めて会ったのに、なんでか私のこと知ってたの。本当に知らない? やっぱ、おじいちゃんだけ知ってるのかな」
「おじいちゃんの知り合い? 芝原さん……そういえば昔、そんな名前の人が話に出てきたわね。でも……誰だったかしらねぇ」
「昔ってどれくらい前?」
「五・六年前だったかしら? そうそう、麻奈美が小学生の時だったわ」
 けれど、それ以上のことを光恵が思い出すことはなく、父親に聞いても結果は同じだった。むしろ、「どんな奴だ?」と違う方向に話が進みそうだったので、麻奈美は早々と部屋に引きあげた。

 翌日、学校帰りに数日ぶりに行った大夢は、いつもより静かだった。
 店のBGMはいつもと変わりないし、平太郎もいつも通りカウンターの奥でコーヒーを淹れている。店内には軽食をとっているお客さんが数人いて、奥の席では芝原が書類に目を通している。麻奈美は先ほど、平太郎に頼まれて『芝原セット』を運んだところだ。

「どうした麻奈美、浮かない顔して」
 カウンターの隅でボーっとしていると、平太郎が聞いてきた。
「なんか今日、静かじゃない?」
「ああ、そうか、麻奈美は知らないんだな。今日、三ちゃんとチヨさんは病院なんだよ。検査入院とかで……」
 言われるまで、三郎とチヨがいないことに気がつかなかった。
 いつもはあの二人が楽しそうに会話をしていて、麻奈美もときどき混じっていた。

「ふぅん……あ、そうだおじいちゃん、お母さんから聞いてると思うけど」
「聞いてるよ。いつでも来なさい。それより──」
 平太郎は何か言いかけて、口を閉じた。
「なに? どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 平太郎が話をはぐらかすのはいつものことなので、麻奈美はそれほど気にはしなかった。
 三郎とチヨがいない以外、普段と何も変わらない。常連さんがちらほらいて、初めての人もちらほらいる。外は夕方になっても日差しが暑いくらいに照りつけているが、店内は窓に伸びる朝顔のツタが光を良い具合に和らげてくれている。

 客足が途絶えたので、麻奈美は宿題をすることにした。いつもはカウンターの奥で広げているが、今日は人も少ないので店側だ。

 宿泊研修が終わり、学校行事は残すところ期末試験だけになった。入学以来、麻奈美はもちろん勉強した。大夢で過ごす時間のほうが多かった気もするが、一生懸命やってきたつもりだ。家庭教師の良子にも毎週土曜日に見てもらっていて、最近は問題を解く時間が短くなった、と褒めてもらっている。

 けれど、理数系が苦手なのは変わらないので、文系科目に比べると成績は悪い。
 試験前は学校の授業は短縮され、家庭教師も時間を延長してもらった。その上、苦手科目にかける時間を多くとった。もちろん、大夢で時間があるときは、テーブルを借りて勉強した。

「明日からかぁ……大丈夫かなぁ……」
 試験前は休んでも良い、と平太郎は言っていたが、麻奈美は大夢の手伝いを休まなかった。試験勉強はもう十分やっているし、大夢にいる時間が好きなのもある。
 と言っても、不安が皆無になることはないので、一応、教科書を広げている。

 三郎とチヨは病院から戻っていつも通りカウンター席に座っていたが、麻奈美の勉強には力になれず悪い、と言って、帰ってしまった。もちろん麻奈美は、「そんなの関係ないですよ、ゆっくりしていってください」と言ったのだが。

 麻奈美が数学の教科書とにらめっこしていた時、
「えらいね、仕事しながら勉強?」
 帰ろうとしている芝原が声をかけてきた。

 麻奈美はまだ彼の正体をつかんでいないが、ある程度の会話をするようにはなっていた。平太郎は洗った食器を片づけている。話は聞こえているだろうが、何も言ってこない。
「明日から試験なんです」
「ふぅん……数学かぁ。僕の苦手分野だな」
 芝原は麻奈美の教科書を覗いていたが、『数字は受け付けない』というバツの悪そうな顔で苦笑った。
「芝原さんは、何の勉強されてるんですか?」
「うーん……主に世界史かな。それじゃ、試験頑張ってね」

 と言って芝原が出て行くのと、別の客が入ってくるのとはほぼ同時だった。どちらかと言えば、別の客が入ってくるほうが、若干早かったかもしれない。
 予想外の客人に、麻奈美は驚くしかなかった。
「先生?」
「しば、はら……?」
「え?」
「芝原、よね?」

 やって来たのは、家庭教師の浅岡良子だった。浅岡は麻奈美を驚かせただけでなく、出て行こうとする芝原の足をも止めていた。
「おまえ──浅岡?」
「やっぱり芝原ね。昔とイメージ違うから、わからなかったわ」
「あ、あぁ……じゃ、またな」
 芝原は一瞬、わけがわからないという顔をしていたが、すぐに取り戻して店の外へ姿を消した。静寂と、浅岡を見つめる麻奈美と平太郎を残して。

 最初に口を開いたのは、麻奈美だった。
「先生、どうしてここに? それと、さっき──」
 芝原と顔見知りのような会話をしていた。
 麻奈美は二人の関係を聞こうとしたが、平太郎が「どうぞ、掛けてください」と浅岡を席に促したことで、機会を失った。

 けれど、それは意外と簡単に戻って来た。麻奈美の表情を見ていた浅岡が、平太郎に自己紹介したあと、「中学で一緒だったんです」と言った。
「麻奈美ちゃん、芝原のこと、何か知ってる?」
「何も知らないです。名前しか」
「うーん……」
 浅岡の反応は、あまり良いものではなかった。
 けれど、芝原が「またな」と言っていた以上、不仲ではないだろう。
「先生、芝原さんって、どういう人なんですか? うちのおじいちゃんも知り合いみたいで……でも、何も教えてくれないんです」
 そう言って麻奈美が頬を膨らませていると、平太郎が浅岡にコーヒーを運んできた。そして隣のテーブルの椅子に腰かけて、何か考えるような顔をした。浅岡も、麻奈美の質問に答えるのをためらっていた。

「前も言ったように、普通の大学生だ」
 先に口を開いたのは、平太郎だった。
「そうね。そうとしか言いようがないというか、そうなのよね」
 浅岡のその答えは、平太郎の言葉の意味を隠すようにも聞こえた。
「噂にしか聞いてなかったんですけど、本当に大学に入れたんですね」
 やはりその言葉も、麻奈美には違和感があった。
 普通に聞いていれば、何でもない言葉だ。けれど、浅岡と平太郎が芝原について何も語らない以上、曖昧な言葉は麻奈美に疑問を抱かせるだけでしかない。

「それより先生、今日はどうしたんですか?」
「そうそう、明日から試験でしょう。様子を見たくて家に行ったんだけど、家の方がここにいるって言うから、来ちゃった。ごめんね、邪魔しちゃって」
 突然の訪問は気にならなかったし、むしろ来てくれたことはありがたかった。先ほどカウンターで広げていた問題を教えてもらった。浅岡はコーヒーを飲みながら平太郎とも話をしていたが、芝原について触れることは一度もなかった。
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