どうか、『名前』をつけないで
 玄関を開ける。外の世界では、すっかり夏を思わせる真っ青な空が果てしなく広がっていた。そこに、しっかりと形を作った雲が緩やかに流れる。私達は、肩を並べて歩き始める。
 見慣れた通学路。閑静な住宅街を抜けて、子供の頃によく遊んだ公園の脇を通る。歩行者しか通れないくらいの細い裏道が好きで、別に近道じゃないくせに敢えてその道を通る。家の塀と塀に挟まれた狭い道。だけど、蔦が張り巡らされたその塀は、少し幻想的な雰囲気を持っていて、まるでこの先の道を抜けると、別世界に繋がるんじゃないかなとワクワクさせる。
 実際は勿論、大通りに繋がっているだけのただの薄暗い細道なんだけれども。

「夏休みは何します?」

―――すっかりもう、心が夏休みに向いている朔也は、先程からそればかりだ。まだ夏休みまで後、一ヶ月と少しはあるのに。今はまだ、蝉の声すら聞こえていない。

「花火大会はマストですよね。でも、二人だけで花火もしたいですね。プールに、川遊びに、海に。肝試しとか。あとは、」
「ふふ。子供だね」
「そらまぁ、高校生ですからね」

 子供、と言うワードはそう言えば彼には禁句なようで、朔也は先程のうきうきとした表情を引っ込めて、つまらなそうな顔をした。……私とのたった一歳の歳の差を、どうやらコンプレックスに思っているようだった。
 盗み見た横顔はぶすっと不貞腐れていて、その頬に暑さの為の汗が光って流れた。よく、アイドルの流す汗は尊いというけれど、彼の汗も正しくそれ。魅力的な彼の魅力を更に引き立てる。
 不貞腐れた顔はしかし、やがて悪戯顔に歪んで、にやりと笑みを浮かべる。「それとも、」と開いた口は、何処か扇情的でつい、ドキリとしてしまう。その顔はそのまま私の耳元まで近付いて、潜ませた声と一緒に、その吐息が耳を(くすぐ)る。

「子供には出来ないこと、しちゃいます?」

 かぁっと顔全体が一瞬にして熱くなる。「んな、」とか「ふぇ、」とか、意味を成さない言葉が漏れた後、口はパクパクと開閉だけを繰り返した。
 耳を押さえたまま言葉を紡げない私を見て、彼は、プッと吹き出し、腹を抱えて笑う。

「旅行とかですよ? 何、想像したんですか? 先輩、やっらしー」
「うっ、うるさいっ! ばか! ばぁーっか!」

 最寄り駅まで徒歩十分。駅から電車で三駅。更に十五分程歩いて、やっと高校が見える。
 そんなやり取りをしている間に駅に着く。改札を抜けると、丁度いいタイミングで電車に乗り込めた。よく空調の効いた電車内は、かいた汗を直ぐに乾かしてしまって少し冷える。
 電車内は都会の電車のように混んではいないけど、通学通勤で利用する人は少なからず居て、パッと見、二人並んで座れる席が見付からなかった。そのまま、ドアの傍で並んで立った。見回した電車内では、大体いつもと変わらない顔が見える。
 話したことも無いのに、すっかり「見知った顔」になったOLや、違う高校の生徒達がチラチラとこちらを見ているのには、勿論、いつも気が付いている。
 いつもの三車両目。きっと、“いつもこの車両に乗るから”乗っている人と、“朔也の顔を拝む為に”乗っている人がいるんだろうなぁなんて、苦笑いしてしまう。
 彼女として、誇らしいような、気まずいような。
 時折、サラリーマンなんかもこちらを窺っていて、(流石は朔也。男性にも魅惑的に映るんだなぁ)なんて、それには少し感心する。
 おはようございます、と何人かの同じ高校の子に声をかけられた。同じ高校と言うことと、毎朝会うと言うこと以外、接点がない女の子達。私が「おはよう」と返せば、嬉しそうに笑って会釈し、その場を離れる。きゃあきゃあと弾む話し声から、朝から朔也の顔を拝めて嬉しかったのかなぁなんて考えてしまって、やっぱり、苦笑してしまう。
 電車を降りて、他愛もない話をしながら高校に向かって歩く。すっかり同じ制服の学生達だけになった人の流れは、まるでこの先の道に吸い込まれていくようだな、なんて思う。
 正門を潜り、ソテツがシンボルのように植えられているアプローチを抜けてロビーへ着くと、それまでの会話を切って、真剣な顔をした朔也がこちらを向く。

「今日、部活休みなんですけど、待ってていいですか?」
「え? そうなんだ? 待たすと悪いから、先に帰りなよ」
「図書室で待ってますね。じゃあ、また放課後に」

 私のことを大好きだな、なんて。疑う余地もない程に私に従順な彼は、しかし時々、私の返答を聞いていない。
 やれやれ、と溜息をついて、ロビーで別れる。
 放課後に、と小さく片手をあげる彼はいつも、まるで捨てられた仔犬のような顔をする。……そんなに不安そうな顔をしなくても、捨てたりなんてしないのに。
 ロビーを右に曲がって直ぐの中央階段を三階まで登って、左に真っ直ぐ。手前から数えて三番目の部屋が、私のクラス。二年五組。
 
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