どうか、『名前』をつけないで

1話 『恋人』

 目を覚ました時、部屋の天井を見ながらいつも既視感を覚える。
 既視感、なんて表現は変なのかもしれない。
 でもいつも、目が覚めた時にふと、自分は誰だったかなぁなんて他人事のように思う。
 身を起こして見渡す自分の部屋が、まるで自分の部屋ではないような違和感。

 ピピピ、ピピピ。
 
 目覚ましが鳴る。いつも、目覚ましをかけているのに目覚ましより先に起きてしまう。枕元に転がるスマホを手に取り、停止ボタンを押して、両腕を天井に向かってグッと伸ばした。
 遮光カーテンではない部屋のカーテンからは、その隙間のみならず全体から光が溢れ、ベッドの上に射し込んでいる。それでもそれを引き開ければ、より眩しい朝の光に目を細めた。
 制服に着替えて、階段を下りる。真っ直ぐに洗面所に向かい、鏡を見てやっぱり、既視感。
……変なの。毎朝見ている自分の顔なのに。癖の強い髪の毛は今日もあっちこっち好き放題に寝癖をつけていた。顔を洗い、歯を磨く。それから、ヘヤーミストを吹きかけて髪の毛を整える。

(………切ろうかなぁ…。でも、短い方が手入れ大変って言うしなぁ…)

 うーん、と悩みながらリビングに向かう。
 誰も居ないダイニング。
 テーブルの上には見慣れた書き置き。手に取らなくても、「食パン、チンしてね。今日も愛してる。いってきます」と書いてあるんだろうなぁと予測がつく。
 既に母の手によって開け放たれたカーテン。
 遮るものがレースのカーテンしか無くなった窓からは、惜しみ無く朝日が射し込み、私以外、他に誰も居なくとも、全く薄暗さを感じさせない。
 コントラスト。と、いつも思う。
 こういう、眩しい朝のリビングが、より一層私の孤独の色を濃くさせる。
 それでも、いつものように黙々と朝食の準備―――…食パンにマーガリンを塗り、トースターにかけているところで、インターフォンの音がした。

咲桜(さくら)せんぱーいっ」

 聞き慣れた、私を呼ぶ声。
 ふふ、とつい、笑顔が溢れる。仄暗い影を注していた心が、暖かいもので満たされていくのを自覚する。
 はーい、と弾む声で玄関まで行き、扉を開けて彼を見る。夏服の白に朝日が反射して、眩しい。いつもそっと目を細めてしまう。片手を挙げて「おはようございます」と微笑む彼を、「おはよう」と中へ招き入れる。

朔也(さくや)、あともう五分程遅く迎えに来てくれてもいいんだけど?」
「早く先輩に会いたかったから」
「……もう、また……」
「あ、真っ赤。可愛い」

 毎朝のように、その可愛い後輩であり私の愛おしい恋人は、私を迎えにやって来る。
 年下ながらその端正な顔立ちは、「甘いマスク」と言う言葉を連想させる。彼はその道行く人々が振り返るであろう屈託無い笑顔を、私にだけ惜しみ無く向ける。
 朝食がまだだから、とそのままいつものようにリビングに通す。謀ったように――いや、謀ってたんだけれど――二枚焼いたトーストの内、一枚を別の皿に取って、昨晩の残り物のサラダを付け合わせ、彼の座る席の前に置いた。

「……いつも言ってますけど、朝御飯たかりに来てる訳じゃないので、お気遣い無く……」
「なに遠慮してんの? どーせ今日も朝御飯食べてないんでしょ? 朝は食べなきゃ、元気でないよ」
「俺の栄養源は貴女なんで」
「はいはい。さ、食べよっか」

 彼の不意打ちな口説き文句には、不覚にも赤面したり、さらっと流せたり。その時々で色々だけど、取り敢えず、今のは誤魔化しでしか無かったので、さっさと手を合わせてトーストを噛る。
 テレビを点けて、朝のニュースを確認する。
 母はいつも、雨の日でも天気予報を確認せずに洗濯物を外に干してから出勤するので、雨の予報だったらベランダから洗濯物を回収し、部屋干しに変えておかなければならない。……良かった、今日はこの天気が続くらしい。

「天気なんて。気にして生きたこと無いなぁ…」

 良かった、と声が漏れていたらしく、その呟きを拾い上げた朔也が言う。同じように手を合わせて食べ始めたトーストが、もう三分の一になっていた。あ、飲み物を出してあげるの忘れてたな、と慌ただしくキッチンへ向かう。
 
「最近、突然、豪雨になったりするじゃん? 念には念を、だよ」
「夏が近付いてますからねぇ」

 夏休みですね、と「楽しみ!」と顔に大きく書いてこちらに笑いかける。水を差すように、「まだ早過ぎない? その前にテストだし」と笑いかけながら、オレンジジュースの入ったコップを手渡した。

「テストなんて、大したものじゃないですよ」
「くぅーっ。出たよ。学年トップは言うことが違うねぇ~」

 顔がいい上に、頭までいいと来た。しかも、生意気なところがあってもその実、滅茶苦茶優しいし、彼女想いだ。私の彼氏はほんと、非の打ち所がない。パーフェクトな人間って本当にいたんだなぁ、なんて思う。それが、私の彼氏だなんて。今でも信じられない。時々、私は実は今、眠っていて、とても幸せな夢を見てるんじゃないかと思う。

「………どうしました? 人の顔ばっかり見て」
「んーん。幸せだなぁって」
「…………俺も、幸せです。毎日、夢を見ているみたい。」

 彼も、私と同じことを思っていたらしい。
 覚めなければいいのに、と頼り無い小さな声で呟くので、「夢じゃないから、覚めるわけ無いじゃない」と笑った。
 二人で手を合わせて御馳走様をした後、洗面所で並んで歯磨きをする。「朝御飯をたかりに来た訳ではない」と言うけれど、この家にはその歯磨きの様に、彼の私物がちょっとずっと増えていった。私のクローゼットの中には、彼のパーカーやハーフパンツが入っている。
 こうして少しずつ、我が家に溶け込むことが狙いなのかな? と思うと、くすぐったいように思う。
 父は単身赴任。母は仕事人間で。私は小学生高学年の頃から、まるで一人暮らしのような生活をしていた。
 時に、寂しいと思うようなこともあった。でも、そんな時には必ず彼が――――――…、あれ?

「……私、朔也といつ出会ったんだっけ…?」
「…………忘れたんです? 中学生の時ですよ」
「ああ……?」

 玄関でスリッパを靴に履き替えながら、朔也は眉を寄せた。曖昧な記憶を見透かされたようで、つい、苦笑いをする。そうだったっけ…? もっと前から、傍に居てくれていたような……。違ったっけ?―――疑問符は、全部飲み込んだ。
< 2 / 9 >

この作品をシェア

pagetop