社宅ラプソディ

2.はじめまして



『株式会社小早川製作所 博多工場 梅ケ谷社宅』 


重厚な一枚板に書かれた社宅の名称は、風雨にさらされところどころ文字がかすれている。 

ここのどこが博多なのか、どうして博多と言えるのか、詐欺じゃないかと明日香は思ったが、名古屋本社もそうだったと思い出した。

会社の所在地は隣接した市にあるのに、『名古屋本社』 だった。

もっとも、向こうは都会の雰囲気が感じられる街だったが、ここは都会どころか地方の地方である。

『博多工場』 と名乗るのは詐欺だ、との思いが増してくる。

亜久里の転勤が決まり、赴任先は 『博多工場』 と聞いて、まず明日香が思ったのは 「食べ物がおいしいところ」 ということ。

名古屋の社宅にいた先輩主婦たちも、みなそろって 「博多は食べ物が美味しい、住みやすい、そこそこ都会で便利」 と言っていた。

梅ケ谷社宅に住んだ経験者はいなかったが、先輩主婦たちの話から楽しい暮らしを想像していた。

もちろん、住所検索もした。

ストリートビューで見た梅ケ谷社宅周辺に 『梅ケ谷小学校』 はあるが、肝心の社宅は出てこない。

小学校が新築のように綺麗だったため、近くにある社宅も綺麗に違いないと思い込んだ。

思えば、根拠のない想像はおかしいと気づくはずなのに、あの時はなぜか 「社宅は新築」 と思った。

新しい学校、新しい社宅、周辺には新築の家が立ち並び、大型スーパーがあり、きっと便利なところに違いないと、よくもまあ、都合よく想像したものである。

亜久里が入居書類に記入する横で、明日香はそんなことを考えていた。


「佐東さんは、三号棟 『川崎棟』 の三階です。303号室」


「3が並んで覚えやすいですね。あっ、そこ、名前は藤じゃなくて東です」


『佐藤』 と間違われるのはいつものことで、亜久里は東ですと、人のよさそうな管理人に向かって三度繰り返した。

繰り返すことで相手に覚えてもらえるのだと、明日香と会ったときも同じことを言っていた。

気さくで、優しくて、頼りになる佐東亜久里とは、社会人のバドミントンサークルで知り合った。

中学高校と部活を続けてきた亜久里は、スポーツは好きだがバドミントン初心者の明日香の入会当初から、専属コーチのように付きっきりで教えてくれた。

佐東亜久里と旧姓小倉明日香は 「グリグラ」 と、サークル仲間からはふたりまとめて呼ばれた。

絵本 『ぐりとぐら』 と、バドミントン界の強豪ペアがニックネームのように名前を短く呼ばれることにも由来している。

もともと運動が得意な明日香は、亜久里の熱心な指導もありみるみる上達、「グリグラ」 ペアはミックスダブルスの試合に出場するまでになった。

一緒にいることも多く、互いを意識するまでに時間はかからなかった。 

交際は順調に進み、30歳までに結婚出来たらいいなと、なんとなく思っていた明日香の思いが通じたのか、「結婚しよう」 と言われたのは明日香の29歳の誕生日を目前にした、ちょうど一年前の今ごろ。

「はい」 と即答した明日香の前で、亜久里はガッツポーズをした。

それからの亜久里の行動は目をみはるものがあり、「頼りになるけれど、のんびりした人」 と明日香が感じていた亜久里の印象を覆す積極的な動きで、半年後には結婚式を挙げた。

名古屋本社の社宅は昨年建て替えられたばかり、ピカピカの社宅に新婚で入れるなんて、自分たちはなんて運がいいのだろうと思った。

ところが、結婚半年で夫に地方勤務の辞令が出た。

社宅の生活にも慣れて楽しくなってきた明日香はがっかりしたが、いずれ転勤がある、急な転勤もあるので仕事はやめてくれないかと亜久里から言われて、結婚を機に退職したのは良かったと思った。

急な退職は難しい、同僚たちに迷惑がかかるだけでなく、自分も気まずい思いをするだろうし、退職できなければ別居するしかない、新婚でそれは嫌だった。

仕事に未練はあったけれど、予想以上に早く転勤になり、思い切って辞めておいて良かった、そう思っていたのだが……

もしかしたら、亜久里の転勤は前もって決まっており、短い間だけ特別に新築の社宅に入れたのかもしれない。

近々転勤があると言わず、明日香に結婚を申し込んだのだとしたら……

いまさら考えても仕方のないことが、次から次に明日香の頭に浮かんでくる。

書類に必要事項を書き込む亜久里の背中の向こう側に、社宅三棟の新築時の写真が掲げられていた。

ピカピカだった頃の社宅の写真は、見事なセピア色に変わっている。


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