スイート×トキシック
*



 至るところに浮かび上がった(あざ)や切り傷を、彼は愛おしそうに眺めていた。

「芽依、肌が白いから傷が映えるね。綺麗だよ」

 その感覚は理解出来ないが、自分がぼろぼろになっていることはわざわざ傷を見なくても分かる。

 空気に触れているだけで火傷しそうだ。
 あちこちから生ぬるい血が流れて肌を伝っていく。

「……っ」

 十和くんはとことん容赦がなかった。
 殴ったり蹴ったりつねったり、鋭いはさみで切ったり刺したり────。

 嫌になるほど悲鳴を上げた。
 “やめて”と懇願(こんがん)した。
 それでも彼の気が済むまで、暴力は()まなかった。

(もう嫌だ……)

 何度もそう思った。

 何が、なんだろう。
 痛い思いをするのが? 彼に(しいた)げられるのが?
 ……生きるのが?

 いずれにしても“痛み”はわたしから気力と体力を奪った。
 今も床に倒れたまま、少しも動けない。

 何だかひどく疲れた。疲れ果てた。
 呆然として何も考えられない。

(痛いよ……)

 残った感覚はそれだけだった。

 彼の気配は空気と同化し、声は耳を通り過ぎ、どんな感情も()いでしまった。

「ちゃんと反省してね」

 十和くんの手が、唇の傷を撫でる。
 彼は指先についた血をぺろりと舐めた。

「俺がいないときも、痛みで俺のこと思い出して。俺のことだけ考えて」

 意識が朦朧として、視界が揺れた。

 いっそのこと気を失ってしまえれば楽なのに、身体中を駆け巡る痛みがそうさせてくれない。

 嫌でも十和くんの言う通りになりそうで気が滅入(めい)る。

「芽依には俺しかいないんだから」

 そう残し、彼は部屋から出ていった。



 ひとりになっても金縛りが解けない。
 水底(みなそこ)に沈んだみたいに、身体が重くて息が苦しい。

「う、ぅ……」

 今になってやっと、逃げ出すのに失敗したことの意味が分かってきた。

 結果的に十和くんを(あざむ)き裏切ってしまったことで、せっかく手に入れた平穏が消え去った。

 ふかふかの布団もあたたかいご飯も、きっと取り上げられるだろう。
 多少の快適さも自由もなくなる。

 手足を拘束されたまま硬く冷たい床で眠る日々に逆戻りだ。

 それは紛れもなく、わたしが自ら手放した────。

「うぁぁああっ!」

 思わず嘆いた。

 麻痺(まひ)していた心が我を取り戻し、一気に激情がなだれ込んでくる。
 枯れたはずの喉から掠れた声が出た。

 ……悔しい。本当に悔しい。
 希望の光に手が届きそうだっただけに、余計悔やまれる。

 あと少しだったはずなのに。
 何もかもを見透かされていたなんて。

 詰めが甘かったせいで。
 一瞬でも彼を信じたせいで。

 ぽろぽろと涙があふれた。
 熱い雫が傷に染みる。

「……っ!」

 ぎり、と歯を食いしばった。
 力を入れ過ぎて頭が痛くなってくる。

 ────これで、ぜんぶ振り出しに戻った。

(ううん、それよりひどいかもしれない)

 十和くんの怒りを買っているという点でマイナスだ。

 フォークも取り上げられたし、脱出に関しては今後ますます警戒を深めるに違いない。
 監視の目はより鋭くなり、これまで以上に隙がなくなる。

(あと少しで、先生に会えるはずだったのに……)

 唇を噛み締め、目を閉じた。
 力が抜けた。

 何だかもう、何も考えたくない。
 このまま静かに眠ってしまいたい。
< 75 / 187 >

この作品をシェア

pagetop