つがいの花嫁は竜人王に溺愛される
小さな格子窓に切り取られた四角の青空――。
それがエメルティアにとって、外界のすべてだった。
色褪せた狭い室内には簡素な寝台が置かれているだけ。ひとつしかない出入口の扉は外側から頑丈な鉄板で塞がれており、開かない仕様になっている。エメルティアがこの部屋を出られるのは、死体になったときだけだと堅牢な扉は物語っていた。
いつものように寝台の端に腰掛けて、ぼんやりと格子窓越しの空を見上げる。扉の下に取り付けられている狭い戸板が、カタンと音を立てた。
日に一度だけ鳴るその音は、虜囚の身であるエメルティアに食事が提供された合図であり、外の世界とつながれている唯一の音でもあった。
エメルティアは機械的に顔を扉に向ける。
盆の上に乾いたパンがひとつと、水の入ったコップが置かれている。それが一日分の食事だった。
のろのろと立ち上がり食事を手にするが、パンにはカビが生えていて、コップの半分しか入っていない水は不純物が沈殿していた。エメルティアはためらいなく、それらを無感情に摂取する。
ここに閉じ込められたときは憤りや悲しみなど様々な感情が入り乱れたが、月日が流れた今はなにも感じなくなってしまった。
食事を終えたら、古びた漆喰の壁に爪で細い線をつける。死ぬことしか許されないエメルティアの、ただひとつの仕事。
それは塔の一室に閉じ込められてからの、月日を数えることだ。
「十年、経ったのですね……」
久しぶりに出した声は掠れていた。声を出す必要もないので、ふだんはひとことも発しない。
傷んだ亜麻色の髪は腰まで伸び、長い睫毛に縁取られた大きな瞳を遮っている。陽の光の下では宝石のように輝くであろう瞳は昏く澱んでいた。華奢な肢体は骨と皮ばかりで、顔色は病人のように青白い。
まとっているのは、ぼろきれのように薄汚れたシュミーズのみ。
壁に刻まれた膨大な線のひとつひとつは、エメルティアの絶望を表している。
あれは十年前のことだった。
ルキアナ国の公爵令嬢であるエメルティアは、幼い頃に母を亡くし、地方の城に父とわずかな召使いとともに暮らしていた。ところが父が王都へ行っていたとき、この城に突然やってきた王国軍に捕らえられ、塔へ閉じ込められた。
罪状は、反逆罪。
エメルティアには心当たりがなかった。王の弟である父は常々、王国を私物化して重税を課す王の所業を憂いていた。
そして王に忠言するため、領地から王都へ父が向かったときのことだったから。
捕らえられたエメルティアに、兵士は無情に王命を告げた。
『逆賊の娘であるエメルティアは公爵令嬢の身分を剥奪、塔に幽閉と処す』
すぐさま引き立てられ、寂れた塔の一室に放り込まれた。外から釘を打ちつける音を聞きながら、エメルティアはなにが起こったのか必死に考えた。
なぜ、自分が反逆罪として幽閉されなければならないのか。
父はいったいどうしたのだろうか。
だが当時十歳だったエメルティアには、どうすることもできなかった。
それ以来、誰にも会えず、狭い塔の部屋にひとりきりで過ごすことになった。
食事は日に一度、戸板から差し出されるだけ。風呂には入れず、顔を洗う水もない。着ていた服はやがて薄汚れ、ぼろのようになったシュミーズだけが残された。
布団などないので、冬の夜は寒さで凍えそうになる。華奢な身体を丸めて、部屋の隅にうずくまるしかなかった。逆に夏は風通しが悪いので蒸し暑くなり、喉が渇いて息ができないほどの苦痛に襲われた。
もちろん誰も助けてはくれない。
エメルティアが死んだら、召使いはそれを確認して、王に報告するだけだ。
いつまで待っても、父が救いに来てくれることはなかった。
年月が経過するごとに、エメルティアの心中には諦めが滲んだ。
おそらく父は、兄である王の不興を買ったのではないだろうか。それゆえ反逆罪とされ、娘であるエメルティアも同罪とされたのかもしれない。罪人として死ぬまで幽閉され、その罪を贖わなければならないのだ。
過去を反芻するたびにいつも、絶望が胸に広がる。
せめて父がどうしているのか知りたかったが、エメルティアに食事を提供している召使いはなにも口を利かなかった。罪人のエメルティアと話してはいけないのだろう。エメルティアは何度も無実を訴え、父のことを訊ねたが、彼らはいっさい答えを返さなかった。
ただ己の境遇を嘆き悲しむことしかできなかった。
もう涙も乾ききったので、汚れて黒ずんだ頬には涙の雫すら流れない。
うつむいていたそのとき、ふと異様な音が耳に伝わってくる。
地を踏み荒らす馬蹄。大勢の人の声。
こんなにも大きな音がするのは幽閉されたとき以来だ。いったい、なにが起きているのだろう。エメルティアは息をひそめて耳を澄ます。
突如、扉を叩く激しい音が響いた。
びくりと肩を跳ねさせる。
凄まじい力で何度も扉は打ちつけられ、歪んでしまう。やがて頑丈な扉は軋んだ音を立てて崩れ落ちた。
決して開くことのない扉を破壊して、そこに現れた人を目に映したエメルティアは息を呑む。
それがエメルティアにとって、外界のすべてだった。
色褪せた狭い室内には簡素な寝台が置かれているだけ。ひとつしかない出入口の扉は外側から頑丈な鉄板で塞がれており、開かない仕様になっている。エメルティアがこの部屋を出られるのは、死体になったときだけだと堅牢な扉は物語っていた。
いつものように寝台の端に腰掛けて、ぼんやりと格子窓越しの空を見上げる。扉の下に取り付けられている狭い戸板が、カタンと音を立てた。
日に一度だけ鳴るその音は、虜囚の身であるエメルティアに食事が提供された合図であり、外の世界とつながれている唯一の音でもあった。
エメルティアは機械的に顔を扉に向ける。
盆の上に乾いたパンがひとつと、水の入ったコップが置かれている。それが一日分の食事だった。
のろのろと立ち上がり食事を手にするが、パンにはカビが生えていて、コップの半分しか入っていない水は不純物が沈殿していた。エメルティアはためらいなく、それらを無感情に摂取する。
ここに閉じ込められたときは憤りや悲しみなど様々な感情が入り乱れたが、月日が流れた今はなにも感じなくなってしまった。
食事を終えたら、古びた漆喰の壁に爪で細い線をつける。死ぬことしか許されないエメルティアの、ただひとつの仕事。
それは塔の一室に閉じ込められてからの、月日を数えることだ。
「十年、経ったのですね……」
久しぶりに出した声は掠れていた。声を出す必要もないので、ふだんはひとことも発しない。
傷んだ亜麻色の髪は腰まで伸び、長い睫毛に縁取られた大きな瞳を遮っている。陽の光の下では宝石のように輝くであろう瞳は昏く澱んでいた。華奢な肢体は骨と皮ばかりで、顔色は病人のように青白い。
まとっているのは、ぼろきれのように薄汚れたシュミーズのみ。
壁に刻まれた膨大な線のひとつひとつは、エメルティアの絶望を表している。
あれは十年前のことだった。
ルキアナ国の公爵令嬢であるエメルティアは、幼い頃に母を亡くし、地方の城に父とわずかな召使いとともに暮らしていた。ところが父が王都へ行っていたとき、この城に突然やってきた王国軍に捕らえられ、塔へ閉じ込められた。
罪状は、反逆罪。
エメルティアには心当たりがなかった。王の弟である父は常々、王国を私物化して重税を課す王の所業を憂いていた。
そして王に忠言するため、領地から王都へ父が向かったときのことだったから。
捕らえられたエメルティアに、兵士は無情に王命を告げた。
『逆賊の娘であるエメルティアは公爵令嬢の身分を剥奪、塔に幽閉と処す』
すぐさま引き立てられ、寂れた塔の一室に放り込まれた。外から釘を打ちつける音を聞きながら、エメルティアはなにが起こったのか必死に考えた。
なぜ、自分が反逆罪として幽閉されなければならないのか。
父はいったいどうしたのだろうか。
だが当時十歳だったエメルティアには、どうすることもできなかった。
それ以来、誰にも会えず、狭い塔の部屋にひとりきりで過ごすことになった。
食事は日に一度、戸板から差し出されるだけ。風呂には入れず、顔を洗う水もない。着ていた服はやがて薄汚れ、ぼろのようになったシュミーズだけが残された。
布団などないので、冬の夜は寒さで凍えそうになる。華奢な身体を丸めて、部屋の隅にうずくまるしかなかった。逆に夏は風通しが悪いので蒸し暑くなり、喉が渇いて息ができないほどの苦痛に襲われた。
もちろん誰も助けてはくれない。
エメルティアが死んだら、召使いはそれを確認して、王に報告するだけだ。
いつまで待っても、父が救いに来てくれることはなかった。
年月が経過するごとに、エメルティアの心中には諦めが滲んだ。
おそらく父は、兄である王の不興を買ったのではないだろうか。それゆえ反逆罪とされ、娘であるエメルティアも同罪とされたのかもしれない。罪人として死ぬまで幽閉され、その罪を贖わなければならないのだ。
過去を反芻するたびにいつも、絶望が胸に広がる。
せめて父がどうしているのか知りたかったが、エメルティアに食事を提供している召使いはなにも口を利かなかった。罪人のエメルティアと話してはいけないのだろう。エメルティアは何度も無実を訴え、父のことを訊ねたが、彼らはいっさい答えを返さなかった。
ただ己の境遇を嘆き悲しむことしかできなかった。
もう涙も乾ききったので、汚れて黒ずんだ頬には涙の雫すら流れない。
うつむいていたそのとき、ふと異様な音が耳に伝わってくる。
地を踏み荒らす馬蹄。大勢の人の声。
こんなにも大きな音がするのは幽閉されたとき以来だ。いったい、なにが起きているのだろう。エメルティアは息をひそめて耳を澄ます。
突如、扉を叩く激しい音が響いた。
びくりと肩を跳ねさせる。
凄まじい力で何度も扉は打ちつけられ、歪んでしまう。やがて頑丈な扉は軋んだ音を立てて崩れ落ちた。
決して開くことのない扉を破壊して、そこに現れた人を目に映したエメルティアは息を呑む。
< 1 / 56 >