探偵は夢中で捜査中
歌田と警部がソファに腰を下ろした途端、侑芽は口を開いた。
「歌田さん、舟漕警部。このカバンの持ち主を特定することができました」
「えぇ!?本当ですか越智先生!?」
警部は驚いた拍子にずり落ちたメガネを押し上げる。
歌田も同じく驚いたようで、目をパチクリさせて聞いている。
「はい。今回は時間が迫っているので早速謎解きに入りたいと思います」
「あぁ、お嬢ちゃん助かるよ。急かしてすまんが聞かせておくれ」
侑芽はコホンッと咳払いを1つした。
「単刀直入に言います。このカバンの持ち主は、交番に3番目に来られた男性です」
答えを聞いた侑芽以外の3人は顔を見合わせる。
「し、しかし、なぜそう思われるのですか?確かにカバンにはその男性の職場である夢中大学の文化祭のチラシが入っていました。ですが先ほどレムさんが言っていたように、これは一般向けに配られたものです。誰が持っていてもおかしくないのでは・・・」
代表して警部が問いかける。このことでレムと散々議論していたので、疑問が大きいようだ。
「おっしゃる通り、このチラシ1つを見れば誰でも持ち主に当てはまってしまいます。大事なのは全体を見ることなんです。ここにある品々。その全ての持ち主として当てはまるのがあの男性なんです」
「う〜ん。そうですかねぇ。他に2人も当てはまりそうですが・・・」
警部はどうも納得が言っていない様子だ。
警部だけでなく、歌田やレムも首を傾げている。
「私が他の2人が持ち主でないと思う理由は、料理酒です。帰宅前ならともかく、これからアルバイトに行く人や、お店を訪ねる予定の人が持っているのは少し不自然だと思います」
「で、でもそれを言うなら男性だって出勤途中だったんですよね?変じゃないですか?」
警部はなおもを食い下がる。
「いいえ。この男性だけは説明がつきます。仕事に使うから持っていたんですよ。というか、ここにあるものはチラシ以外全て男性の仕事の道具だと思います」
「えぇ・・・。でも確かその男性は大学の先生でしたよね?歌田さんの話によると生物系の学部の先生だとか。
チラシ以外でここにはあるのは、白いタオルハンカチ、ピンセット、バナナ、穴の開いたカメラのフィルムケース、懐中電灯、軍手、未開封のレディースストッキングです。大学の先生がこれらを使って一体何をするんですか?」
警部の最もな疑問に、侑芽は人差し指を立てて答えた。
「昆虫採集ですよ」
侑芽はニコッと笑う。
「昆虫採集!?」
警部と歌田が同時に声を上げる。しかし、レムだけはハッと何かに気付いたような表情になった。
「そうです。その男性は昆虫学の先生だと思います。歌田さん言っていたでしょう?何の学問の先生か聞いた時に、トゲがあるとかないとかっていう話をしていたって」
「あぁ、そうじゃ。難しくて良く分からんかったんじゃが・・・」
「それは『トゲナシトゲトゲ』という名前の昆虫の話をしていたんですよ。この昆虫は体にトゲがあるかないかで呼び方が変わる少々ややこしい名前の昆虫なんです」
「そうじゃそうじゃ。思い出したわい。『ややこしい名前ですが、そこも非常に興味深いんです』と言っておられたな」
歌田が嬉しそうにグレイヘアを撫でる。
「男性が昆虫学の先生なら、フィールドワークとして昆虫採集を仕事中にしていても不思議ではありません。
ハンカチと軍手は山で土を触るため、手や服が汚れるから。ピンセットは小さい昆虫などを採集する時に使うもの。懐中電灯は木の割れ目の中にいる昆虫を見つける時などに使用します。夜間はヘッドライトを使用する方もいるようですが」
「なるほど・・・。では、さっき問題になった料理酒は?あと、バナナやストッキングは何に使うんですか?」
「これらは3つセットで使うんです。バナナを料理酒に漬けてストッキングに入れる。それを木に吊るしておけば昆虫が集まってくるんです。通称バナナトラップと呼ばれるものです。多分この先生は今日仕掛けて、翌日そのトラップを回収するつもりなんですよ。放置すると生物や環境に悪影響が出る恐れがありますからね」
「そんな方法があるんですね。初めて知りました」
「最近はネットにやり方が載っていますよ。場所によっては禁止している所もあるので注意が必要ですが、大学の先生なら許可を取って行っているんでしょう」
最後に残ったのは空のフィルムケースだ。
「では、越智先生。このフィルムケースは何に使うのですか?」
侑芽はフィルムケースを手に取って、蓋を開けた。
「これはズバリ、虫カゴです」
「虫カゴ?虫カゴと言ったらこう、格子状になっていてもっと大きいんじゃないですか?こんな小ささではカブトやクワガタは入りませんよ?」
「確かにそういった虫カゴもありますが、小さい昆虫であればフィルムケースに入りますよ。これなら嵩張らずに持ち運べるというメリットがあるんです。蓋に開いているのは空気穴なので、短時間捕獲しておくならこれで十分可能です」
「でも、中に昆虫は入っていませんし、本当に虫カゴとして使っていたと言えるのでしょうか・・・?」
知っている虫カゴとあまりに違いすぎるからなのか、警部が疑い深い目でフィルムケースを見つめる。
「私も最初は半信半疑でしたが、レムが青リンゴのような匂いがすると言った時に確信しました」
「そうですよ!あの匂いは何なんですか?これが虫カゴであるなら、エサで青リンゴを入れていたと言う事ですか?」
「いえ、青リンゴに似た匂いを発する昆虫がいるんです。『キベラヘリカメムシ』という昆虫です。カメムシといえば強烈な匂いがするイメージですが、中にはこんな爽やかな匂いのする個体がいるんですよ。
恐らく、以前このフィルムケースに入れていたんですね。その残り香をレムが感じ取ったんです」
それを聞いて、レムが得意そうに自身の鼻を擦った。
警部は感心して侑芽の話を聞いている。ところが、思い当たったことがあるらしく、眉間に力を入れた。
「ん?待ってください。このカバンの中身が昆虫採集をする時の道具であることは分かりました。でもだからと言って、このカバンがあの男性の物だとは言い切れないのでは?
もしかしたら、女子大生の子も実は学校帰りに昆虫採集に行くつもりかもしれませんし、それはもう1人のご婦人にも言えることだと思うのですが・・・」
「えぇ。その通りです。なので私は歌田さんに3人が交番に来た時の服装を尋ねたんです」
「服装?」
「はい。ストッキングが未開封ということは、まだトラップは仕掛けておらず、これから仕掛けに行くのでしょう。つまり交番に来たその服装のまま、山に昆虫採集に行くつもりだということになります。
夕方にコンサートがあるのに、その前に着替えに帰る時間はないでしょうからね」
侑芽は歌田から先ほど聞いた3人の服装を警部に伝える。
それを聞くと、警部は腕を組んでソファの背もたれに深く身を沈めた。
「なるほど・・・。そうなるとやはりご婦人は違いますね。着物に雪駄で昆虫採集に行ったとは思えません。
でも大学生の子は動きやすい服装のようですし、あり得るのでは?」
「いいえ、警部。確かに動きやすそうですが、問題は服の色ですよ。黒い服は蜂に狙われる恐れがあるので、昆虫採集をする際は避けることが推奨されています。フィルムケースを虫カゴにするほど採集に慣れている人物が、それを知らないとは思えません。
その点、男性の服装は全てクリアしていると思います。それに男性が履いていたという足首まであるボタンのついたスニーカーは、スニーカーではなく、トレッキングシューズという登山靴だと思います。横にあるボタンはダイヤルになっていて、靴のキツさを調節できるんですよ」
侑芽が話し終えると、しばらく黙って聞いていた歌田が突然ソファからすっくと立ち上がった。
何事かと侑芽と警部とレムが見上げる。すると歌田は両手を顔の前に持ってきて、おもむろに大きな拍手をした。
「素晴らしい!なんて素晴らしい推理力と洞察力じゃ!お嬢ちゃん、確かにその男性は交番からお帰りになる際、しゃがんで靴のボタンを何やらいじっておった。その時は気にも留めておらんかったが・・・。なるほどそういうことじゃったか」
歌田は納得したように頷く。
侑芽は照れたように頭に手をやりながら「いやぁ。それほどでも」と言い、まんざらでもない様子で笑っている。
そしてご主人様が褒められたことが嬉しくて、レムも笑顔を浮かべた。
「お嬢ちゃん、ありがとう。おかげでコンサートまでにチケットを返せそうじゃ。舟漕君、ワシはもう1度夢中大学に電話をしてくるよ。もしかしたら先生が帰っておられるかもしれんからな」
そう言って歌田が携帯電話を取り出すと、同じタイミングで警部のスマホが鳴った。
「あ、歌田さん待ってください。もしかしたら夢中大学からかも知れません。ちょっと出ますね。
───はい、もしもし。・・・はい。そうです。・・・えぇ、先ほどはすみません。・・・あ、そうですか。お帰りに?・・・分かりました。研究室に伺えば良いんですね?分かりました。どうもありがとうございました。お手数をお掛けしました。はい、すぐに伺います」
警部は電話を切ると、グッと親指を立てた。
「グッドタイミングでした。先生が戻られたそうです。表に車を停めていますから行きましょう。
越智先生とレムさんも、差し支えなければ是非お越し下さい」
「はい、もちろんです。行かせていただきます」
その後、全員で急いでカバンの中身を元に戻し、警部の運転で夢中大学に向かった。
##########
キャンパスに到着し、事務の人に研究室の場所を尋ねる。念の為、何の学部の先生か確認した所、
「昆虫学の先生ですよ。主にハムシの研究をなさっているんです。今日はこのあとフィールドワークの為、裏山に行かれるご予定です」
と返ってきた。侑芽の推理は裏付けられたのである。
目的の研究室はすぐに見付かった。プレートには『第1研究室 椎津(しいつ)准教授』と表記がある。どうやらこれが男性の名前のようだ。
ノックをすると、「はーい」という男性の声が聞こえてドアが開いた。
「あ、もしかして私をお探しだった方ですか?さっき事務所から連絡があったので・・・。スマホの電池が切れていたので気付かなくて」
服装、年齢。歌田の証言と一致している。どうやらこの男性が交番に来た椎津先生のようだ。
「そうです。突然お尋ねしてすみません」
警部が代表して答える。
「いえ、それは大丈夫なんですけど・・・。
あれ?あなたは今朝、交番で道を教えて下さった方ですよね?どうなさったんですか?私に何のご用で?」
椎津は不思議そうに一行を見回す。この様子だと、どうやらカバンを置き忘れたことに気付いていないらしい。
「これを届けに来たんじゃよ。先生、あなたのものではないですかな?」
歌田がカバンを差し出す。
「え!あれ!?置き忘れていましたか?
うわ〜、すみません。助かりました。今から仕事で使うものが入っていたんです」
男性はペコペコとお辞儀をしながらカバンを受け取る。
「すまんのぉ。ワシがすぐに気付いたら良かったんじゃが・・・」
「いえいえ、とんでもないです。わざわざ届けて頂いてありがとうございます。しかし、よく私のものだとお分かりになりましたね。拾得物ですから中身はご覧になったと思いますが、身元が分かるものは何もなかったと思いますが・・・」
「それはの、こちらにいるお嬢さんが持ち物から人物像を推理して下さったんじゃよ。先生の大学はワシが聞いておったから、事務の人に事情を話し、年齢と背格好を説明したら多分こちらの先生じゃろうと教えて下さったというわけじゃ」
歌田が侑芽を振り返って話す。侑芽は照れ臭さを感じつつも、得意げに胸を張った。
「そうでしたか!それはすごいですね。いや〜でも変なものがいっぱい入っていたでしょう?わざわざ届けさせてしまってすみません」
「いやいや。そんなことありゃせんよ。それに、コンサートのチケットが入っておったじゃろ?それを見てワシはすぐに届けねばならんと思ったんじゃ」
「チケット・・・?」
椎津はそういうと、サッと顔を青くしてカバンの中に入っているチケットを確認した。
「・・・わ、私、ここにチケットを入れていたんですね。今更ながら冷や汗が出ました・・・。
他のものは正直、無くしてしまっても諦めがつくのですが、このチケットは今日の仕事終わりに妻と行く約束をしているんです。娘がこのオーケストラに所属してまして、初めて演奏するもので・・・。
会場に行ってから忘れたことに気付いていたらどうなっていたことか。このチケットを発券する為に、今朝はいつもと違う道で通勤して道に迷ったというのに・・・」
椎津は冷や汗を拭った後、ふぅ。と息を吐いて胸を撫で下ろした。
「改めて、本当にありがとうございました。皆さんにお礼をしたいところなんですが、申し訳ないことに、これからフィールドワークに行かないといけないんです。お礼はまた後日改めてさせて頂きます」
椎津はすまなそうに眉を八の字にする。
「お礼なんて良いんじゃよ。さっきも言った通り、気付かなかったワシにも落ち度がある。その代わり、どうぞコンサートを楽しんで来て下され。そうしてもらえれば届けた甲斐があるというもんじゃ」
歌田の言葉に、侑芽たちも同意する。
恐縮して何度もお礼を言う椎津を制して、一同は研究室を後にした。
帰りの車内。
運転を歌田と交代した警部は、助手席からバックミラー越しに侑芽とレムに目を合わせた。
「いや〜越智先生、今回もお見事な推理でした!
レムさんの嗅覚も相変わらず冴えていましたね!
先ほど、持ち主候補だった他の2人の連絡先にも電話で解決したことをお伝えした所、よく見つかりましたねと驚いておられましたよ。
越智先生が博識なのは存じておりましたが、昆虫のことにも知識がおありとは驚きました。」
「いえいえ、聞き齧った知識ですよ。本当に詳しい方は私なんかの比じゃないですからね」
侑芽が楽しそうに答える。
その「本当に詳しい方」が誰を意味するのか。
それが分かるレムは、静かに笑って目を閉じた。
「歌田さん、舟漕警部。このカバンの持ち主を特定することができました」
「えぇ!?本当ですか越智先生!?」
警部は驚いた拍子にずり落ちたメガネを押し上げる。
歌田も同じく驚いたようで、目をパチクリさせて聞いている。
「はい。今回は時間が迫っているので早速謎解きに入りたいと思います」
「あぁ、お嬢ちゃん助かるよ。急かしてすまんが聞かせておくれ」
侑芽はコホンッと咳払いを1つした。
「単刀直入に言います。このカバンの持ち主は、交番に3番目に来られた男性です」
答えを聞いた侑芽以外の3人は顔を見合わせる。
「し、しかし、なぜそう思われるのですか?確かにカバンにはその男性の職場である夢中大学の文化祭のチラシが入っていました。ですが先ほどレムさんが言っていたように、これは一般向けに配られたものです。誰が持っていてもおかしくないのでは・・・」
代表して警部が問いかける。このことでレムと散々議論していたので、疑問が大きいようだ。
「おっしゃる通り、このチラシ1つを見れば誰でも持ち主に当てはまってしまいます。大事なのは全体を見ることなんです。ここにある品々。その全ての持ち主として当てはまるのがあの男性なんです」
「う〜ん。そうですかねぇ。他に2人も当てはまりそうですが・・・」
警部はどうも納得が言っていない様子だ。
警部だけでなく、歌田やレムも首を傾げている。
「私が他の2人が持ち主でないと思う理由は、料理酒です。帰宅前ならともかく、これからアルバイトに行く人や、お店を訪ねる予定の人が持っているのは少し不自然だと思います」
「で、でもそれを言うなら男性だって出勤途中だったんですよね?変じゃないですか?」
警部はなおもを食い下がる。
「いいえ。この男性だけは説明がつきます。仕事に使うから持っていたんですよ。というか、ここにあるものはチラシ以外全て男性の仕事の道具だと思います」
「えぇ・・・。でも確かその男性は大学の先生でしたよね?歌田さんの話によると生物系の学部の先生だとか。
チラシ以外でここにはあるのは、白いタオルハンカチ、ピンセット、バナナ、穴の開いたカメラのフィルムケース、懐中電灯、軍手、未開封のレディースストッキングです。大学の先生がこれらを使って一体何をするんですか?」
警部の最もな疑問に、侑芽は人差し指を立てて答えた。
「昆虫採集ですよ」
侑芽はニコッと笑う。
「昆虫採集!?」
警部と歌田が同時に声を上げる。しかし、レムだけはハッと何かに気付いたような表情になった。
「そうです。その男性は昆虫学の先生だと思います。歌田さん言っていたでしょう?何の学問の先生か聞いた時に、トゲがあるとかないとかっていう話をしていたって」
「あぁ、そうじゃ。難しくて良く分からんかったんじゃが・・・」
「それは『トゲナシトゲトゲ』という名前の昆虫の話をしていたんですよ。この昆虫は体にトゲがあるかないかで呼び方が変わる少々ややこしい名前の昆虫なんです」
「そうじゃそうじゃ。思い出したわい。『ややこしい名前ですが、そこも非常に興味深いんです』と言っておられたな」
歌田が嬉しそうにグレイヘアを撫でる。
「男性が昆虫学の先生なら、フィールドワークとして昆虫採集を仕事中にしていても不思議ではありません。
ハンカチと軍手は山で土を触るため、手や服が汚れるから。ピンセットは小さい昆虫などを採集する時に使うもの。懐中電灯は木の割れ目の中にいる昆虫を見つける時などに使用します。夜間はヘッドライトを使用する方もいるようですが」
「なるほど・・・。では、さっき問題になった料理酒は?あと、バナナやストッキングは何に使うんですか?」
「これらは3つセットで使うんです。バナナを料理酒に漬けてストッキングに入れる。それを木に吊るしておけば昆虫が集まってくるんです。通称バナナトラップと呼ばれるものです。多分この先生は今日仕掛けて、翌日そのトラップを回収するつもりなんですよ。放置すると生物や環境に悪影響が出る恐れがありますからね」
「そんな方法があるんですね。初めて知りました」
「最近はネットにやり方が載っていますよ。場所によっては禁止している所もあるので注意が必要ですが、大学の先生なら許可を取って行っているんでしょう」
最後に残ったのは空のフィルムケースだ。
「では、越智先生。このフィルムケースは何に使うのですか?」
侑芽はフィルムケースを手に取って、蓋を開けた。
「これはズバリ、虫カゴです」
「虫カゴ?虫カゴと言ったらこう、格子状になっていてもっと大きいんじゃないですか?こんな小ささではカブトやクワガタは入りませんよ?」
「確かにそういった虫カゴもありますが、小さい昆虫であればフィルムケースに入りますよ。これなら嵩張らずに持ち運べるというメリットがあるんです。蓋に開いているのは空気穴なので、短時間捕獲しておくならこれで十分可能です」
「でも、中に昆虫は入っていませんし、本当に虫カゴとして使っていたと言えるのでしょうか・・・?」
知っている虫カゴとあまりに違いすぎるからなのか、警部が疑い深い目でフィルムケースを見つめる。
「私も最初は半信半疑でしたが、レムが青リンゴのような匂いがすると言った時に確信しました」
「そうですよ!あの匂いは何なんですか?これが虫カゴであるなら、エサで青リンゴを入れていたと言う事ですか?」
「いえ、青リンゴに似た匂いを発する昆虫がいるんです。『キベラヘリカメムシ』という昆虫です。カメムシといえば強烈な匂いがするイメージですが、中にはこんな爽やかな匂いのする個体がいるんですよ。
恐らく、以前このフィルムケースに入れていたんですね。その残り香をレムが感じ取ったんです」
それを聞いて、レムが得意そうに自身の鼻を擦った。
警部は感心して侑芽の話を聞いている。ところが、思い当たったことがあるらしく、眉間に力を入れた。
「ん?待ってください。このカバンの中身が昆虫採集をする時の道具であることは分かりました。でもだからと言って、このカバンがあの男性の物だとは言い切れないのでは?
もしかしたら、女子大生の子も実は学校帰りに昆虫採集に行くつもりかもしれませんし、それはもう1人のご婦人にも言えることだと思うのですが・・・」
「えぇ。その通りです。なので私は歌田さんに3人が交番に来た時の服装を尋ねたんです」
「服装?」
「はい。ストッキングが未開封ということは、まだトラップは仕掛けておらず、これから仕掛けに行くのでしょう。つまり交番に来たその服装のまま、山に昆虫採集に行くつもりだということになります。
夕方にコンサートがあるのに、その前に着替えに帰る時間はないでしょうからね」
侑芽は歌田から先ほど聞いた3人の服装を警部に伝える。
それを聞くと、警部は腕を組んでソファの背もたれに深く身を沈めた。
「なるほど・・・。そうなるとやはりご婦人は違いますね。着物に雪駄で昆虫採集に行ったとは思えません。
でも大学生の子は動きやすい服装のようですし、あり得るのでは?」
「いいえ、警部。確かに動きやすそうですが、問題は服の色ですよ。黒い服は蜂に狙われる恐れがあるので、昆虫採集をする際は避けることが推奨されています。フィルムケースを虫カゴにするほど採集に慣れている人物が、それを知らないとは思えません。
その点、男性の服装は全てクリアしていると思います。それに男性が履いていたという足首まであるボタンのついたスニーカーは、スニーカーではなく、トレッキングシューズという登山靴だと思います。横にあるボタンはダイヤルになっていて、靴のキツさを調節できるんですよ」
侑芽が話し終えると、しばらく黙って聞いていた歌田が突然ソファからすっくと立ち上がった。
何事かと侑芽と警部とレムが見上げる。すると歌田は両手を顔の前に持ってきて、おもむろに大きな拍手をした。
「素晴らしい!なんて素晴らしい推理力と洞察力じゃ!お嬢ちゃん、確かにその男性は交番からお帰りになる際、しゃがんで靴のボタンを何やらいじっておった。その時は気にも留めておらんかったが・・・。なるほどそういうことじゃったか」
歌田は納得したように頷く。
侑芽は照れたように頭に手をやりながら「いやぁ。それほどでも」と言い、まんざらでもない様子で笑っている。
そしてご主人様が褒められたことが嬉しくて、レムも笑顔を浮かべた。
「お嬢ちゃん、ありがとう。おかげでコンサートまでにチケットを返せそうじゃ。舟漕君、ワシはもう1度夢中大学に電話をしてくるよ。もしかしたら先生が帰っておられるかもしれんからな」
そう言って歌田が携帯電話を取り出すと、同じタイミングで警部のスマホが鳴った。
「あ、歌田さん待ってください。もしかしたら夢中大学からかも知れません。ちょっと出ますね。
───はい、もしもし。・・・はい。そうです。・・・えぇ、先ほどはすみません。・・・あ、そうですか。お帰りに?・・・分かりました。研究室に伺えば良いんですね?分かりました。どうもありがとうございました。お手数をお掛けしました。はい、すぐに伺います」
警部は電話を切ると、グッと親指を立てた。
「グッドタイミングでした。先生が戻られたそうです。表に車を停めていますから行きましょう。
越智先生とレムさんも、差し支えなければ是非お越し下さい」
「はい、もちろんです。行かせていただきます」
その後、全員で急いでカバンの中身を元に戻し、警部の運転で夢中大学に向かった。
##########
キャンパスに到着し、事務の人に研究室の場所を尋ねる。念の為、何の学部の先生か確認した所、
「昆虫学の先生ですよ。主にハムシの研究をなさっているんです。今日はこのあとフィールドワークの為、裏山に行かれるご予定です」
と返ってきた。侑芽の推理は裏付けられたのである。
目的の研究室はすぐに見付かった。プレートには『第1研究室 椎津(しいつ)准教授』と表記がある。どうやらこれが男性の名前のようだ。
ノックをすると、「はーい」という男性の声が聞こえてドアが開いた。
「あ、もしかして私をお探しだった方ですか?さっき事務所から連絡があったので・・・。スマホの電池が切れていたので気付かなくて」
服装、年齢。歌田の証言と一致している。どうやらこの男性が交番に来た椎津先生のようだ。
「そうです。突然お尋ねしてすみません」
警部が代表して答える。
「いえ、それは大丈夫なんですけど・・・。
あれ?あなたは今朝、交番で道を教えて下さった方ですよね?どうなさったんですか?私に何のご用で?」
椎津は不思議そうに一行を見回す。この様子だと、どうやらカバンを置き忘れたことに気付いていないらしい。
「これを届けに来たんじゃよ。先生、あなたのものではないですかな?」
歌田がカバンを差し出す。
「え!あれ!?置き忘れていましたか?
うわ〜、すみません。助かりました。今から仕事で使うものが入っていたんです」
男性はペコペコとお辞儀をしながらカバンを受け取る。
「すまんのぉ。ワシがすぐに気付いたら良かったんじゃが・・・」
「いえいえ、とんでもないです。わざわざ届けて頂いてありがとうございます。しかし、よく私のものだとお分かりになりましたね。拾得物ですから中身はご覧になったと思いますが、身元が分かるものは何もなかったと思いますが・・・」
「それはの、こちらにいるお嬢さんが持ち物から人物像を推理して下さったんじゃよ。先生の大学はワシが聞いておったから、事務の人に事情を話し、年齢と背格好を説明したら多分こちらの先生じゃろうと教えて下さったというわけじゃ」
歌田が侑芽を振り返って話す。侑芽は照れ臭さを感じつつも、得意げに胸を張った。
「そうでしたか!それはすごいですね。いや〜でも変なものがいっぱい入っていたでしょう?わざわざ届けさせてしまってすみません」
「いやいや。そんなことありゃせんよ。それに、コンサートのチケットが入っておったじゃろ?それを見てワシはすぐに届けねばならんと思ったんじゃ」
「チケット・・・?」
椎津はそういうと、サッと顔を青くしてカバンの中に入っているチケットを確認した。
「・・・わ、私、ここにチケットを入れていたんですね。今更ながら冷や汗が出ました・・・。
他のものは正直、無くしてしまっても諦めがつくのですが、このチケットは今日の仕事終わりに妻と行く約束をしているんです。娘がこのオーケストラに所属してまして、初めて演奏するもので・・・。
会場に行ってから忘れたことに気付いていたらどうなっていたことか。このチケットを発券する為に、今朝はいつもと違う道で通勤して道に迷ったというのに・・・」
椎津は冷や汗を拭った後、ふぅ。と息を吐いて胸を撫で下ろした。
「改めて、本当にありがとうございました。皆さんにお礼をしたいところなんですが、申し訳ないことに、これからフィールドワークに行かないといけないんです。お礼はまた後日改めてさせて頂きます」
椎津はすまなそうに眉を八の字にする。
「お礼なんて良いんじゃよ。さっきも言った通り、気付かなかったワシにも落ち度がある。その代わり、どうぞコンサートを楽しんで来て下され。そうしてもらえれば届けた甲斐があるというもんじゃ」
歌田の言葉に、侑芽たちも同意する。
恐縮して何度もお礼を言う椎津を制して、一同は研究室を後にした。
帰りの車内。
運転を歌田と交代した警部は、助手席からバックミラー越しに侑芽とレムに目を合わせた。
「いや〜越智先生、今回もお見事な推理でした!
レムさんの嗅覚も相変わらず冴えていましたね!
先ほど、持ち主候補だった他の2人の連絡先にも電話で解決したことをお伝えした所、よく見つかりましたねと驚いておられましたよ。
越智先生が博識なのは存じておりましたが、昆虫のことにも知識がおありとは驚きました。」
「いえいえ、聞き齧った知識ですよ。本当に詳しい方は私なんかの比じゃないですからね」
侑芽が楽しそうに答える。
その「本当に詳しい方」が誰を意味するのか。
それが分かるレムは、静かに笑って目を閉じた。