ワケあり王子は社員食堂の女神に恋をする
大手企業の社員食堂で働く桜葉の出勤時間は、思いの外早い。
最近では物価上昇という波に比例して、他店でランチするよりも安く食べられる会社の社員食堂を利用する社員や一般客が増えてきている──だからその分、作る量も半端ないのだ。
桜葉の働く社員食堂は“ハスミ不動産”本社の中にある。
ハスミ不動産は日本で一、二を争う大手不動産企業──桜葉はそこに調理担当として半年前から勤め始めているのだ。
顔を洗い頬のそばかすにコンシーラーを塗って、全体的に薄く化粧を施すまで約十分……起きてからだとトータルで二十分ちょいほどで家を出る。
仕事のある日はいつもこのルーティン──ちなみに朝食は仕事場で食べている。
桜葉が家を出るのと同時にガチャリと隣室のドアノブが回る音が聞こえ、ギーという錆びついた音を鳴らしながら古びた玄関ドアが開いていく。
そして中からヒョコッと顔を出してきたのは隣室に住むおじいちゃんだ。
「おぅ、さよちゃん! 今から出勤かい? いつも早いねぇー」
「あ、はいっ。トメさんは太極拳、あまり張り切り過ぎるとまた腰やっちゃうから気をつけてねー」
トメ(本名:留吉)さんというのは先程、朝早くから奇声を発すると共に太極拳をしていた張本人。
歳ははっきりと聞いたことはないが見た目は小柄でパッチリ目、白髪を軽くオールバックにしている小綺麗なおじいさんだ。
若いときはきっとモテたであろう雰囲気が外見から伝わってくる。
性格は少し頑固で変わってはいるが面倒見の良い人物だ。
「わかってるさ。腰に負担かけずにゆっくりやっとるわい」
「それならいいけど……じゃあトメさん、行ってきます!」
「ほいよ、気をつけてなぁー」
この緩い感じのやり取りは桜葉にとって何だかとても心地良い。
それはたぶん、トメと話していると何となく田舎を思い出してしまうからだろう。
(……あー、そう言えば最近話していないけど弦気達……元気にしてるかな)