ワケあり王子は社員食堂の女神に恋をする


ずっと玄関のドアノブに手をかけたままその場から一ミリも動けずにいた岳少年は、自分の方へと歩み寄ってくる京一郎の威圧感にゴクリと唾を飲み込む。
優しい笑顔や言葉を向けられても幼き岳少年にも感じることができた。


(……こいつ、悪い奴だっ!!)

父と言い合いになっていたのもあると思うが、子供には直感的にその人の本質を見抜く不思議な感覚がある。
その優しそうな仮面の下には醜い本性、柔らかな口調の裏には打算的な意味合いが見え隠れしているということを。

岳少年の目線に合わせるよう京一郎は腰を屈め顔を覗き込んできた。

「僕……お名前は?」

「…………」

優しい笑顔、柔らかな口調……けれども岳少年は反射的に京一郎から顔を背けてしまう。

「あ、あのっ、スミマセン、息子は少し人見知りなもので」

慌てて岳少年と京一郎の間に入り込みこの状況から救い出してくれたのは母だった。
京一郎は一瞬、苦々しい顔を見せたかと思うと目線はそのまま母に留まった。
そのジトっと舐められるようないやらしい視線は、母の頭上から足先までをも値踏みする。
その行為が一通り終わったかと思うと京一郎の顔はまた優しい笑顔へと戻っていった。

「いや失礼、あまりにも奥様が綺麗な御方だったのでつい魅入ってしまいました。
……失礼ですが奥様のお名前は?」

「……あ、あの…詩乃(しの)、と、申します」

「素敵な名ですね」

気付かぬ内に少しずつ母の側へと擦り寄っていく京一郎。
それに怯え、母も少しずつ後退りをしていく──が、

今度は父が透かさず京一郎と母の間に割って入り一喝する。

「お引き取りをっ!!」

笑顔を崩さず浅い溜め息を漏らす京一郎は母に一言、「それでは詩乃さん、また近いうちに」とだけ言って店の外へと出て行った。

その後に続き、秘書の久遠ともう一人── 店にいる間一度も声を出さず、また表情をも崩さない強面でとても大柄な男。
彼は玄関を通り過ぎる際、凍てつくような目を岳少年に向ける。
それはもう、人でも殺しかねない鋭いナイフでも突き刺すような恐ろしい視線。
彼は一体何者なのだろうか。

そして、この時のことは岳少年の記憶に深く刺さり根付いたままになっている。
それはまるで永遠に抜けない黒い棘のように──


そして、その日を境に岳少年達の日常は一気に暗転していくのであった。




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