世界樹の下で君に祈る

第2話

「うらやましいのは、こっちの方なんだけど」

 リンダは不意に実験の詳細な経過を記録したノートを取り上げると、それを装置に向かって振り上げる。
ガラスで出来た繊細な器具を叩き割るかと思った瞬間、彼女は元あった机の位置にそれを投げつけた。

「ルディ……。私はね、めちゃくちゃ悔しいの。分かる? このままじゃいられない。自分がバカだったと思ってる。世間知らずだったって。マセルやボスマン博士に、そんな気はないって分かってても、私はバカにされたのよ。『かわいい』って言われて、うれしい? 私は全然うれしくなかった!」

 ボスマン研究所で教えてもらった通り、器具と試薬を新たに買いそろえ、何度試しても思うような結果は出なかった。
彼らが簡単に成功してしまう製法でも、彼女には難しかったのだ。
リンダの知識と実験の腕は、ここでは他に誰も並ぶ者のいないほど飛び抜けている。
それでもまだ、世界は広かった。

「私はどうすればいい? ねぇ、ルディ。どうすればいいと思う?」

 彼女の潤んだ瞳から、一筋の滴が流れた。
世界樹を育てる肥料を作る。
聖女がいなくても、枯れずに育つ世界樹を作る。
聖女として生まれ、聖女であるが故に捨てられた彼女にとって、それは自分の存在と価値を賭けた研究だった。
リンダを抱き寄せ、その肩を抱きしめる。

「私はいつでも、あなたの味方よ」

 リンダはそっと私の腕を払うと、その頬を濡らしたまま首を横に振った。

「少し一人にして」

 実験室を出て行く彼女を、追いかける者は誰もいなかった。
思えば彼女はいつも、一人で戦っていたんだ。
ここに彼女の質問に答えられる人間はいない。

 執務室に戻ると、聖堂を取り巻く雑務の処理を始めた。
私がここに居て出来ること。
それは聖堂に通う聖女候補の乙女たちが、聖女としてよりよい活動が出来るようにすること。
聖女として世界樹のために祈ることを決断してくれた彼女たちの人生から、聖女であることによって起こる困難を排除していくこと。
自分にとっては、生きがいとも言える仕事になっていた。
だけどそれも、もうすぐお終い。
私はお姉さまについて国の仕事を手伝うことになる。

 ふとリシャールの姿が頭をよぎる。
彼が腰を下ろした書斎机の角を見つめた。
彼も同じだ。
国に帰れば、王子としての仕事が待っている。
妻となる人を探しにブリーシュアへ来たと言っていたけど、それが叶わなかったことについては、どうするのだろう。
本国の女性を妻として選ぶのだろうか。
その人もやっぱり、聖女としての能力を持つ人なのかな……。
どこからかいいようのない寂しさがこみ上げてくる。
空はすっかり秋の空に変わっていた。
最後に彼と触れた唇の、その感触を確かめるように指を這わせる。
ドアがノックされた。

「どうぞ」

 わすかに開いた隙間からするりと滑り込んできたのは、リンダだった。

「リンダ? どうしたの?」

 彼女の漆黒の髪が、いつも何にも染まることのない黒い目が、決意に満ちまっすぐに私を見つめている。

「ルディ。私、レランドへ行っていい? ルディがいいって言ってくれたら、私はレランドに行きたい」
「どうして私の許可がいるの?」

 彼女は一瞬ビクリと体を動かした。
そんなこと聞かないで。
ずるい。
行かないでなんて、言えるわけない。
座っていた椅子から立ち上がる。

「行きたければ、行けばいいじゃない。きっと喜ばれるわ。大歓迎よ。聖女を連れ帰るのが、最大の目的であり望みだったのですもの」

 あの人に求められ、あの人に愛される条件を揃え、あの人を追いかけていけるのに、そうしない理由が分からない。

「私は、喜んであなたを送り出しましてよ、リンダ。推薦状が必要かしら? あぁ、きっとそんなものは必要ありませんわね。あなたは殿下とも親しく、殿下もあなたのことをよくご存じだもの」

 リンダの闇の底よりも黒い目が、じっと私を見つめている。
そうね。
私は行けないから。
求められてもいないし。
リンダの方が正解かも。
彼女は入ってきたまま、扉の前から動こうとしない。

「早くご挨拶に行った方がよろしいのではなくて? マセルも一緒なら安心ね。出立の準備は間に合いますの? 行くと決まったなら、お別れ会をしたかったのに、こんな急ではなにも出来ないじゃないの。荷物は? 他の方にちゃんとご挨拶はしたの?」

 そうか。
リンダが彼の求める人だったんだ。
ぴったりじゃない。
彼の理想の人は、こんな近くにいた。

「リシャールには、もう言ったの? もっと早く打ち明けてくれていたなら、こんな……」
「まだ言ってない。ルディの方が先だと思ったから」

 胸が痛い。
息が苦しくて、リンダをちゃんと見られない。
リンダはキチンとしているのに、私は全然出来ていない。

「いつから? いつから二人はそういう関係だったの? 私に黙って行くつもりだったのなら……」

 なんでリシャールと、あんなキスしたんだろう。
しなければよかった!

「殿下のことは関係ないの! そう思われるのがイヤだから私はここに来たのに! ルディはこのまま、離ればなれになっちゃっていいの!」
「いいわけないじゃない! どれだけ寂しくて辛いか、リンダには分からないの?」
「だったら、なんでそう言わないのよ!」
「じゃあ行かないでって言ったら、行くのをやめるの? そんなの、リンダじゃない!」
「え? ……。」

 彼女は潤んだ目で私を見つめた。

「私のことじゃないのよ。ルディのことを言ってるの」
「え? リンダがリシャールとレランドに行くって話でしょ?」
「それはそうなんだけど、今はルディの話でしょ」
「私の話って……」
「ルディは、レランドに行かないのかってこと」

 私が? レランドに?

「だ、だって、私は行けないに決まってるじゃない。だって、これからエマお姉さまのお手伝いをするし、王女だし、そもそもレランドに行く理由が……」
「私だってないよ」

 リンダはそう言った。

「だけど、ルディが行くなら私も行くって言ってんの」
「なんで私?」
「だって、リシャール殿下のこと、好きでしょ。ルディなら、『行きたい』って言えば、行けるもの。それに私も付いて行くことにするから、レランドに行って」
「なんで?」
「新しい実験設備で、実験したいから」
「……」

 ガックリと膝から崩れ落ちる。
あふれ出た涙に、リンダは笑った。

「なによ。どうしてルディが泣いてるの?」
「リンダが、リシャールに付いて行くのかと思った」
「付いて行くよ。だけど、私から『行きたい』って言って、許可されるとは思えないもん」
「……。そ、そんなことはないんじゃない?」
「断られたら恥ずかしいから、ヤダ」
「は……、はは……」
「うふふ」

 私が可笑しくなって笑ったら、リンダも笑った。
小さな子供の頃に戻ったみたいに、一緒に手を繋いで床の上に座り込む。
ひとしきり笑ってから、お互いにこぼれた涙を拭った。

「ね、早く殿下のところに行こうよ。早く行かないと、行っちゃうかもよ」
「出発は明日の朝の予定だから、まだ大丈夫よ」
「だけど、早い方がよくない?」
「今さらだけどね……」

 立ち上がり、私たちは互いの目を見つめた。
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