稼げばいいってわけじゃない

第12話

「おはようございます。」
 
 絵里香は重い腰を上げて、出勤した。本当にできることなら長期休暇が欲しい。

 仕事から夫から子どもたちから解放されたここではない楽園のような別な場所に逃げたい。

 何をしている時が幸せだったっけって考えても答えが見出せない。ただ、迫りくるミッションにただただ体に鞭打ってやり過ごしていくだけ。



 誰かの歌にそんな毎日でも選ぶのは自分が選んだ道だとか、お金がたっぷりあって、結婚しているし子どももいるし立派な豪華な家があっても、その人生選ぶでしょうとか言うけど、やっぱり苦労する人生より思い出がなくても楽な人生を選びたいんですが、それはいけないことですかと問いたい。



 思い出がある方が美談というけど、思い出なくてもその日その日を一生懸命に生きて、これで良いと思った人生なら満足するじゃないかと思うのは私だけだろうか。



 お金より何より心が満足することが生きてるって感じるはずだ。


 絵里香は現実から逃げたかった。

 映画を見て、主人公に感情移入するだけは物足りない。

 異世界や転生もののアニメや漫画を見ても、一時的に現実から切り離された世界に行けるが、現実は混沌した世界には変わりない。



 心が、想いが、
 もうここじゃないって感じていた。



「榊原さん、おはようございます。
 娘さん、瑠美ちゃんでしたっけ?
 大丈夫でした?
 昨日の仕事は何とかなりましたから
 気にしないでくださいね。」


 ダメ店長のくせにそういうところは
 絵里香の心にスッと入ってくる。

 本当は何でもできるじゃないかと
 錯覚する。



「あ、ありがとうございました。おかげさまで、回復して元気に学校に行きました。救急車に運ばれたって聞いて何だと思ったんですけど、夫がしっかり子どもたち見てなかったって言うもんですから…。って、店長に愚痴ることはないですよね。」



「いいんですよ。吐き出して…悩みや相談事聞くのも上司のうちですから。遠慮しないでください。」


 ほろりと涙が出そうになった。夫に話しかけてもうるさいだの黙れだの平気に言われる。

 家族ではないからこそ、優しくできるのは分かる。


 それでも、そう言われるだけ嬉しく感じる。

 自分は今すごく病んでるのかもしれない。

 いつもより店長の加藤がキラキラした王子様に見えてくる。

 タキシードを着てこっちにおいでと言われる気がした。

 全然そんなことはないのに。

 ふと現実に引き戻される。

 熱でもあるのかな。

 額を触って確かめるが、平熱だった。



 店長の加藤は、そっと絵里香の横に移動して耳元で話す。


「俺はいつでもお相手しますよ。絵里香さんが望むなら俺のところに逃げてきても良いんですよ。あなたの居場所はそこだけじゃないから。ね?」


 店長の加藤の言葉にものすごく魅力を感じた絵里香。


今の逃げ場のない世界から抜け出せるのかと思ったら、楽園さえにも思えてくる。


 外の世界に出たらどんな自分になれるだろう。

 縛られた家族の中からふと逃げ出したい。

常識的に考えたら、それは違法行為。

結婚したまま違う人のところに行く。

一度の失敗でも、ずっとあの人はって後ろ指をさされる。

本当は夫に訴えて、もっとこっち向いてとか構ってとか子どもの喧嘩のように行動してるだけなんだ。


 離婚せずに行動する妻は、キープが欲しいのかもしれない。


 私はまだ好かれてる最低でも夫と愛人と2人から。


 倫理とか常識とかやってはダメとか良いとかで決めていない。

 その時自分は何をしたいか。

 心を満足する場所はどこかで決めている。


ほら、いつの間にかスーパーのレジ打ちを定時に終えて、店長の加藤の家に流されるように着いて来ている。


 今日は子どもの習い事の送り迎えがある曜日だった。


 夫はもちろんいつも通りの午後8時に帰宅する。


真面目に生きていたら、それを時計を追っかけながら、時間通りにこなして、1日が終わる。


もうそれさえも
できないくらい心が病んでいる。


自由に生きて何がいけないんだろう。



無機質な生活感のない部屋。必要最低限の物しか置いてない。インテリアなんてモノトーンで、全然考えていない。


冷蔵庫には缶ビール5本とつまみであろうモツ煮パッケージ。


しょうがわさびニンニクの3種類チューブが立ち並ぶ。


それくらいしか中に入っていない。


「ご飯って作るの?」


「いや、ほぼ作らない。作れるけど、作る余裕ないから。」


 加藤は、紙タバコにライターで火をつけて、天井に煙を浮かべる。
 
 テーブルにあったノートパソコンを開いてスイッチを入れた。

液晶画面のLEDが光っている。


ふと横から覗いて見る。


「仕事?」


「そう、勤務表のシフト作り。人数少ないけど、これはジグソーパズルしてるみたいでめんどうくさい。ギリギリに希望休出す人いるからそれもまた組み合わせ変更しないといけない。」


「上司になると大変なんだね。」


 ドサっと床に置かれたベットマットに寝転んだ。

ゆったりとした時間にホッとする。本当に何も考えなくて良いかなと今更ながら後悔する。


加藤は寝転ぶ絵里香の顔を覗く。


「やっぱ辞めとけばよかったって思ってる?」


「んー?そういうわけじゃないけど、いつもと違うペースだから調子狂うかな。」


「自分がいない世界はどうなんだろうって家族に知らしめた方よくない?毎日当たり前にしてると家族のありがたさは減るから。いなくなって初めて気づくのよ。大事な人だったって。」


 絵里香の首筋に愛撫する。


「それ、わかる。想像すれば分かるのに平気に雑に扱われるから腹立つ。ここはそう言う思いしなくていいってことだよね?そうなんでしょ?」


「うん、満足させるから。」



 着ていたレースの半袖を脱がされた。  

 ボタンを一つずつ外される
 待ってる自分は何してるんだろうと
 疑問を浮かびながら、
 とりあえず待つ。


「今日、いいんだよね?」


「う、うん。」

 毎月のアレを確認される。
 よく知ってるな、女子を。
 ちゃんと確認するのは優しさか。

 相手するのは私だけなのかと疑う。

 他にも女の気配…
 仕事が忙しすぎて
 そんな余裕もないだろうなと
 思いながら、そのまま身を委ねた。

 いざ、最後までやるかというところで


「あれ、つけなくちゃダメ?」


「別にいいよ。つけなくても。」


「え、なんで。
 いつも、拒否るよね。
 嫌じゃないの?」


「うんまぁ、体裁上。
 そうしとかないと…人妻として
 まずいかなと思ったけど、
 避妊手術したから。
 別に平気。」


「え、うそ。」


「いや、別に龍との子を
 作りたくないわけじゃなくて、
 私にはこれ以上子育て無理だからと
 思ってやっただけ。
 夫との子だってもういらないわ。」


 加藤 龍次郎は、
 気分が萎えたようで、
 ベッドから立ち上がり、
 タバコにまた火をつけて、
 吸い始めた。


「あれ、もういいの?」


「なんかやだな。」


「なんで?」


「だって、俺出しても、スリルがないじゃん。つまんねぇ。」


「スリルって……いうけど
 人妻っていう時点で
 スリルありまくりじゃない。
 何言ってんだか…。
 てか、蛇の生殺しにするの
 やめてもらえない?
 どうしろっていうの?」



「1人でやればいいじゃん。
 男は子孫繁栄するために
 生まれてきてるわけでしょう。
 それを出しても何も起きないって
 何のためにするんだよ。」


「快楽? 欲望? ストレス発散?」

 
 絵里香は、ベッドに座ったまま
 上半身裸でふとんで体を隠し、
 顎に人差し指をつけて考える。


 脱がされた服が
 乱雑に床に散らかっている。


「まぁ、それも一理あるけど。
 最後までやらないよ。
 途中までで俺は満足するから。」

 タバコの煙が天井にふぅーと
 広がっていく。


「何それ。すっごい意地悪じゃん。
 サドだね。」


「何とでも言ってくれ。
 その避妊ってさ、
 犬猫じゃないんだから、
 やめればいいじゃん。
 元に戻れるんでしょう。」


「うん。
 でも、できたら、責任取れるの?」


「1回で出来るわけないっしょ。
 2人も作ってる経験者が、
 何を言ってるんだか…。」



「やめたら相手してくれるの?」


「さーてね。どうしようかなぁ?
 旦那さん次第じゃない?
 相手してくれなかった時に
 考えるから。」


「なんか、それは
 口で言うのならいくらだって
 嘘、言えるよ?
 それでも信じてくれるの?」


「絵里香、ここに来てる時点でもう、
 アウトだよね。

 子どものお世話や家事を
 放置して来てるわけでしょう。

 旦那にも黙っているワケだし。
 
 全部が全部、絵里香を
 俺が信じてると思うの?」

 両腕をガッチリと押さえて
 押し倒した。
  

「やらないって言ったじゃない。
 やめてよ!」


「やっぱ、無理。
 目の前に出されたメニューを
 食べないわけには
 行かない性格なので、
 いただきます。」


「矛盾してるんだけど。」


 結局、やらないと
 言っておいて
 最後までやる龍次郎。


 冷房をつけていても
 ジメジメと蒸し暑く、
 
 事が済んでからも
 想像以上に汗をかく。


 ダメとわかっていても
 行動してしまう。
 

 人間はどこまでもダメな生き物だ。


 ダメだという領域に
 入りたくなるもの。


 人のものを奪うとか
 好きになってはいけない人を
 好きになるとか


 隠してはいけないのに
 隠すとか


 日常じゃない世界に飛び込んで、
 そのあとはどうなるのか
 やってみないと
 わからないこの感覚。

 晃は、きっと私に怒れない。


 晃は絵里香にそれ以上に
 傷つける行動を
 何度もしている。


 一度の過ちを責めることが
 できるのか。


 喧嘩は両成敗で終わると思っていた。




***




「お母さんまだかなぁ。」


 学校から1人で下校して、
 留守番をしていた。
 
 誰もいない部屋で
 宿題を広げた。

 いつも母に宿題出しなさいと
 言われるのを、母がいなければ、
 すすんで出すようだ。

 1人、冷蔵庫から
 残っていたプリンを取り出して、
 使い捨てスプーンを出した。
 3時のおやつになったと同時に
 食べた。



 その頃の塁は、
 幼稚園の預かり保育の時間で、
 園庭で砂遊びをしていた。



「おままごとするよ。
 これは、ケーキね。
 僕の誕生日ケーキ。
 先生、見てみて。
 上手にできたでしょう??」

 バケツに砂を水入れて固めて、
 大きなケーキを作ってみた。

 
 落ちてた小枝がろうそく代わり。
 
 もうすぐ塁は6歳の誕生日だ。


「塁くん、上手じゃない。
 先生も一緒に食べていい?」



「だーめ。
 これはお母さんと一緒に食べるから。    先生は別のケーキね。」
 
 塁はもう一度バケツに砂を詰めて、
 ケーキを作った。

 塁の友達の森内元輝(もりうちげんき)も一緒にままごとに混ざってきた。


「僕もそのケーキ作りたい!!」


「はいはい。
 順番にバケツを使おうね。」

 先生は塁が使ったバケツを取って
 元輝に渡そうとした。


「それ!!僕の。
 先生、勝手に持ってっちゃだめ。」


「え!!塁くん、
 元輝くんも使いたいって
 言ってるよ。」


「でも、まだ、ケーキ作るから。」


「そっか。ごめんごめん。
 元輝くん、塁くんが終わってから
 でもいい?」



「別にもういいや。
 
 ぼくスコップで遊ぶから
 お城作るんだ。」



「寛容な元輝くんでよかった。
 先生、助かるよ。」



「ふんっ!」



 塁は不機嫌そうにケーキを
 作り続けた。


「元輝くーん。お迎え来たわよ~。」


 クラスの出入り口で
 もう1人の先生が呼んでいる。
 
 森内元輝くんのお母さんが
 迎えに来ていた。


 急いで、元輝くんは帰っていく。

 近くにいた先生は立っていた
 体を屈ませた。


「塁くん、
 今日、お母さんどこに行くか
 聞いてない?」


「何も聞いてないよ。」


「お父さんに
 連絡するしかないのかなぁ。
 もう17時になっちゃうし。

 ごめんね、すぐ戻るから、
 ここで待ってて。」


「うん。わかった。」


 バケツでもう一つケーキを
 作り始めた。

 
 するとぽつんと鼻に水が落ちてきた。


「冷たっ。なんだ?」


 塁は空を見上げた。

 
 灰色の雲が覆われて、
 遠くで雷雲が発生していた。

 ポツポツと雨が降ってきた。
 せっかく作った砂のケーキは
 だんだん崩れてくる。

 大雨になってきた。

(お母さんと一緒に食べたかったなぁ。)


 雨とともに塁は涙を流す。
 お砂のケーキがダメになった。


「塁くーーーん。
 大丈夫??
 雨降って来ちゃったね。
 お父さんの会社に電話したら、
 早く帰ってくるって言ってたよ。
 よかったね。」

 先生は大きな傘を差してやってきた。


「なんで?! お母さんじゃないの?」


 びしょ濡れの服のまま叫ぶ。


「え、でも、お母さんに電話したんだけど、返事がないのよ。ごめんね。」


「僕、帰りたくない。
 お母さんじゃないと嫌だ!!」


「そんなこと言われてもなぁ…。
 とりあえず、
 風邪を引くから中に入ろう。」


 先生は、塁を雨が強くなった
 園庭から園舎の中へと誘導した。

 約20分後、
 慌てて、父の晃が迎えに来た。

 大きなタオルで濡れた頭や体を
 先生に拭かれていた。
 
 滅多に幼稚園に迎えに来ない晃は、
幼稚園の駐車場の場所と園舎の出入り口さえも混乱して走ってきた。


 担任の先生の顔も名前もわからず、
 挨拶も適当に中に入って来た。


 汗染みをつけたワイシャツに
 青いネクタイ、紺色のズボンの
 仕事着のままの晃は、
 終始落ち着かない様子。


 幼稚園には、瑠美の卒園式と、
 塁の入園式の後だけで、
 他は一度も中に入った事がない。

 
 参観日も発表会も仕事を
 理由に来なかった。


「お世話になってます。
 榊原 塁の父です。
 この度は妻が連絡つかない
 という事で、
 大変ご迷惑をおかけしました。」


 挨拶は建前上、しっかりできる父だ。


「いえいえ、
 お迎えはご家族ならば、
 どなたでもいいんですよ。
 お父さんが来ていただけるのなら、
 こちらとしても安心です。」


 きっと夫婦の中で何かが
 あったんだろうと園長先生は察した。


「ありがとうございます。
 塁、ほら、帰るぞ。」

上靴やスモック、
大きなお昼寝ふとんの袋を預かると、
塁に近寄って誘導したが、

石のように動かない。


「絶対ヤダ。
 お母さんがいいんだもん。
 お父さん嫌い。」


「そんなこと言わないで。
 先生困るでしょう。
 ほら。」


「困ってるのは僕だもん!!」


「……。」

 手を引っ張って、
 連れて行こうとするが、
 幼稚園の奥にあるホールにまで
 逃げて行く。


 普段、まともに親子で遊ぶことが
 めっきり少なくなった。

 土日もほぼ、
 テレビやゲームに任せっきりで
 相手することは少ない。

 晃は遊んで欲しいんだろうかと、
 鬼ごっこをするように荷物を
 持ちながら
 追いかけた。

 だが、塁は求めていない。

 本気で父を嫌っていた。


「お父さん、
 荷物1回置いていいですよ。」

 先生は、酷そうな晃に声をかける。

 子どもは親を求めてる。

 逃げ回る塁。

 運動をしていない晃は
 息が上がるのが早い。

 追いかけ回すだけで息切れする。

 さすがの塁も疲れたのか、
 カーテンに隠れ始めた。

 ガシッと体をつかみ、ハンドバックのように塁を右腕で担ぎ上げた。
 
 左腕にはお昼寝ふとんと通園バックを持っていた。


「お騒がせしました。失礼します。」

 申し訳なさそうに晃は塁を連れて車に向かう。

 何も言わずに園長と担任の先生は手を振ってお別れをする。


「塁くんのお家、
 ご夫婦、喧嘩でもしたんでしょうか。  
 お母さんがお迎えに来ないのは、
 初めてですね。」


「そうね。
 塁くんのお母さんの職場にも
 連絡したら、
 もうご帰宅しましたっていう話
 だったし、携帯もつながらない。
 何かあったわね。
 まぁ、プライバシーのことだから
 あまり突っ込んで聞けないけど、
 様子見ておきましょう。
 あれはきっと、
 お父さんの方に問題がありそうね。」


 園長先生に見透かされている。

 保育士や幼稚園教諭は、
 親子関係を見ていると
 普段の関わりですぐに見て取れる。

 ウチでも外でも
 常にいい子にしていることが良い
 ってわけでもなく、
 ウチでやんちゃをして、
 親にわがまま言って
 外では良い子にするという
 それがちょうど良いのだが、

 榊原家の塁はどちらも
 わがままになっている様子だった。

 

 晃は、複雑な表情のまま、
 自宅に車を走らせた。





 
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