幸せでいるための秘密
 すっかりべったりな椎名くんの身体を、再び樹くんが引き剥がした。ばちばちと睨みあう二人。そういえば最初にここに来たときも、彼らはつまらないことで喧嘩して、火花を散らして睨みあっていたっけ。

 ついこの間の出来事のはずなのに、ずいぶん昔のことに感じる。いつの間にか、私もここでの生活に馴染んでいたということかな。

「お前は自分の幸せを見つけろ」

 樹くんがそう言った瞬間、椎名くんは確かに言葉を失ったように見えた。

 切れ長の瞳が、まっすぐに椎名くん一人を射抜く。

 数秒の沈黙の後、椎名くんはよろけるようにほんの少しだけうつむいた。そして次に顔を上げたとき、彼はもう私のよく知る椎名玲一に戻って、ニッと意地悪く笑っていた。

「はーぁ、わかったよ。家でもホテルでもどこにでも行けよ」

「あのな……」

「やりたくて仕方なかったんでしょー? 夜間のトイレの回数が減りそうでよかったですねえ波留さんよ」

「ほんと黙れお前」

 最後にわざわざひと睨みして、樹くんは鞄を肩に担いだ。

 私も自分の鞄を持って、慣れた玄関で靴を履く。

 扉が開く。

 ここから見下ろす街の景色も、もう、しばらくは見納めだ。

「椎名」

 樹くんが声をかけると、玄関の隅へ視線を落としていた椎名くんが顔を上げた。



「ありがとう」

「本当にありがとう、椎名くん」



 椎名くんの大きな瞳に、ほんの一瞬夜景がにじむ。

 ぎゅっと眉間に力を込めて、彼は何かを言おうとして、でも視線を横へ逸らすと気の抜けたように微笑んだ。

「……夜遊びしたくなったら、いつでも俺を誘ってね」

「その予定はないな」

「お前じゃねーよ中原に言ったんだよバーカバーカ! とっとと帰れ!」

 第二ラウンドが始まる前に、私は樹くんを引きずって椎名くんの元を後にした。エレベーターが到着するまで、椎名くんはずっと玄関に立って私たちを見送ってくれた。

 エレベーターの中へ乗り込むと、途端に周りの空気がすぅっと色を変えた気がした。狭い個室では目のやりどころに困ってしまい、自然と視線は上を向く。

 かすかな振動。無言の私たち。でも、なぜだか心地よくて、不思議なほどにドキドキする。

 チン、と軽やかな音とともにエレベーターが動きを止めた。自動ドアが左右に開く。綺麗に掃除されたエントランスの向こうに、自由できらびやかな夜の街並みが見えている。

「……じゃあ、帰ろう」

 私たちはこれから、二人で一緒に暮らすんだ。

 ルームシェアではなく――恋人同士として。
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