幸せでいるための秘密



 薄暗い廊下に手を伸ばし、手探りで電気をつける。

「わあ」

 なんて明るい声が漏れたのは、目の前に広がるそのすべてが懐かしさでいっぱいだったからだ。整頓された広いリビング。大きなソファとローテーブル。行き場のない私を受け止めてくれた、樹くんの想いの結晶。

 この部屋が私のために用意されたものだったなんて、あの頃の私は当然考えもしなかった。改めて思うと、樹くんのすさまじい奉仕精神がずんと心にのしかかる。

(ちょっと愛が重いけど、やっぱり私は幸せ者だな)

 私のためにここまでやってくれるような人が、自己愛の塊であるはずがない。

 懐かしのマイルームの扉を開ける。ずっと掃除もしていなかった部屋だ。電気に反射して細かい埃がきらきら浮かび上がっている。でも、やっと帰ってきたんだという思いを強く感じて、少し目頭が熱くなった。

 クローゼットの扉を開けて、私は再びリビングへ戻った。椎名くんが運んでくれていた収納ケースに両手をかけて、よいしょと力を入れてみる。

「うわ、重い」

 椎名くんは一人で軽々運んでいたように見えたけど、洋服がぎっしり詰まった収納ケースは想像よりずっと重量がある。私一人で部屋へ運ぶのはちょっと難しいかもしれない。

「ごめん樹くん、手伝って――」

 そう言って振り返ろうとした刹那、突然背後から抱きすくめられて、私は言葉の続きを失った。振り向きかけた顎を取られて、噛みつくようなキスで唇を塞がれる。

 ん、とくぐもった声が漏れて、私は樹くんの腕を軽く叩いた。ちょっと待ってと伝えたつもりだけど、彼は私のサインを無視して好きなように口内を蹂躙する。

 身動きできないよう抱きしめられて、逃げられないよう後頭部を支えられて、よろけた身体は受け止められるまま自然と彼へ寄りかかってしまう。弄ばれた舌が躍り、絡んだ唾液が跳ねるたびに淫靡な水音が頭で鳴る。

(くるしい)

 酸素が欲しくて鼻から息を吸い込むと、それと一緒に少し汗ばんだ樹くんのにおいが入り込んできて。

(もう、だめ)

 おかしな薬でもかがされたみたいに、足先から甘くしびれていく。

「……百合香」

 唇同士を触れ合わせたまま、樹くんは歌うように言う。

「先に謝っておく。たぶん、無理をさせると思うから」

「ちょっと……まって、おねがい」

「無理。待てない」

 せめてシャワーを、とお風呂場の方を指さすけれど、樹くんは私の手を取ると伸ばした指にキスをした。

 聞く気はない。逃がす気もない。

 獣のような欲を浮かべた彼の双眸が私を頭から飲み込んでいく。もう絶対に止められないと、私に覚悟を強いるみたいに。

 ああ、でも――やっと。やっとだ。

「や……やさしく、して」

 樹くんのシャツを掴んで、私が震えた声で言う。

 彼はそこでようやく微笑むと、くたくたの私の身体を抱き上げ、ゆっくりとソファへ横たえた。
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