幸せでいるための秘密
 前回の反省を踏まえて、買い物には順序を決めた。まず樹くんのパジャマ。それから私の洋服と小物。あとは二人で雑貨を見て、最後に本屋に寄って帰るルートだ。

 何件かお店を見て回って、お昼ご飯を食べて少し休憩。今度は雑貨を見に行こうと再び歩き出したとき、ふいに樹くんがあるお店の前で足を止めた。

 きらびやかな純白のドレスと、ピンクの造花で作られたブーケ。傍らには『海外挙式とハネムーンをセットに!』なんて可愛らしいポップとともにパンフレットが並べられている。どうやら、旅行会社の宣伝用ウェディングドレスのようだ。

(えっ、もう結婚?)

 さすがにちょっと早いような気がしたけれど、言われてみれば私たちももう二十六歳。大学生の頃とは違って、そろそろ本気で将来を見据えたお付き合いを始めても良い頃だ。

 それに樹くんは私のことを、死ぬまで好きだと言ってくれた。その言葉を信じるならば、私はもうプロポーズまでされたと言っても過言ではない……気もする。

「結婚かぁ……」

 美咲の結婚式を思い出す。多くの人々に祝福されながら、笑顔で手を振る美咲の姿。その顔の部分だけが真っ黒に塗りつぶされたかと思うと、でれでれ笑う自分の顔がゆっくり浮かび上がってくる。

 隣を歩く樹くんのすらっときれいなタキシード姿。誰に見せても恥ずかしくない、むしろ大手を振って見せびらかしたい、私の自慢の旦那さま……。

「結婚?」

「えっ?」

 傍らから降り注いだ声に、我に返って顔を上げる。

 樹くんは少し困ったような、それでいて口元だけ微笑んだような、なんともいえない不思議な表情で私を見つめている。

「もしかして、私……声に出てた?」

 樹くんがうなずく。それと同時に、私の顔が火を吹いたみたいに一瞬で真っ赤になった。

「あ、あ、あの、ごめん。ちょっとあの……思い出したの! 美咲のことを!」

「ああ……」

「あの結婚式さ、ほら、すごく良かったなって! 美咲はすっごい綺麗だったし、石川くんも」

 あたふた言い募る私を尻目に、樹くんはふいと視線をドレスへ向ける。それから、

「結婚なんて紙切れ一枚だ」

 いつもの彼らしくない、耳を疑うような言葉が、その唇から飛び出した。

(え……?)

 普段はあれほど情熱的で、自分の想いにまっすぐで、恋人を……私のことを本当に大事にしてくれる彼の、あまりにも冷たく白けた横顔。

 聞き間違いかと戸惑う私に、彼はなおも言葉を続ける。

「神様の前で何を誓わせても、意思さえあればあんなものいくらでも覆される」

「…………」

「相手を縛る鎖にもならない、ただの無意味な通過儀礼だ。自己満足にすらなりはしない」

「樹くん……?」

 そこでようやく我に返った彼は、今の今まで存在そのものを忘れていた目で私を見た。それから決まり悪そうに唇を噛み、ぎゅっと私の手を握る。

「帰ろう」

「えっ、本屋さん行かないの?」

「今度にしよう。また来ればいい」

 ひどく冷酷にそう言い捨てて、樹くんは大股で歩いていく。立ちすくむ私の腕を犬のリードみたいに引き寄せ、転びかけた私の身体を抱き留めると、彼は耳元で低く告げた。

「今すぐに、きみを抱きたい」

 ……そして私の返事も聞かず、顔すら見ずにまた歩き出す。

 仕方なく小走りでついていきながら、私は彼の横顔を見上げることしかできなかった。いつもの樹くんの顔が、今日は知らない人のように見える。

 今、私は知らずのうちに彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか。痛みさえ覚えるほど強く握られた手に、不安がいっそう増していく。

(樹くん、どうしたんだろう)

 大きな背中は沈黙のまま、これ以上の深入りをはっきりと拒絶していた。
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