転生したら幼精霊でした~愛が重い聖獣さまと、王子さまを守るのです!~

20 守るべきもの

 ジーンは大樹の枝の上で立ち竦む。風に乗って漂ってくる腐臭に足元から力が抜けて行ってしまいそうだった。気を抜くと目の前が暗くなっていく。
 ジーンの意識をかろうじて保っているのは、今もどこかから助けを求める声だった。
(あなたは誰? どうして私を呼ぶの?)
 その時、轟音と共に人々の悲鳴が木霊した。城壁の方を見やると、一層目の城壁が崩れていた。
 巨大な魔獣は一層目の城壁を突き破って進み、魔獣の空けた穴からベルギナ軍が入りこんでくる。
 化け物だ、という人々の声が風に乗って聞こえてくる。ベルギナ軍も崩れた城壁から入りこみながらも、恐れて魔獣の方に近寄ろうとはしない。
――助けて、精霊様。
 ジーンは雷に打たれたように体を震わせた。唐突に、様々なことを理解した。
(あれは魔獣じゃない)
 ジーンは大樹を下り始める。この辺りで一番近いふもとは三層の中にある。心配そうにジーンを見守る動物たちの中を、ジーンは大急ぎで足を進めた。
 ふもとでは人々が負傷者を運んで逃げ惑っている光景が広がっていた。
「ジーン殿、すぐに奥へお逃げください!」
 顔見知りの騎士が人々の避難を誘導しながら、ジーンに声をかけてくる。
「魔獣が二層目の城壁を突破したのです。ここもじきにやってきます!」
「……」
「ジーン殿。そっちへ行っては……!」
 ジーンは人々の流れに逆行して三層の城壁に向かった。
 城門は固く閉ざされていたので、ジーンは内側から城壁の階段を上り始める。
 二層になだれこんできたベルギナ軍に、ヴェルザンディ率いる騎士団が懸命に応戦していた。だが次々と現れる敵軍の数に、精鋭の騎士団でも押されていた。
「ヴェルザンディ様!」
 ヴェルザンディの脇腹に矢が突き刺さる。動揺する騎士たちに、彼女は気丈に言い放つ。
「怯むな! 三層より奥に兵の侵入を許してはならん!」
 三層より奥は非戦闘員である老人や子どもたちが多く避難している。それ以上の侵入を許すと甚大な被害が出ることは目に見えていた。
「なりません。引きましょう!」
 ヴェルザンディはその場に踏みとどまってなお指揮を執ろうとしたが、両脇を騎士に抱えられて戦線を離脱する。それを合図に、騎士たちが三層へと引き上げ始めた。
 ベルギナ軍は決壊した川のように大量の兵を送りこんできていたが、突然先頭を走っていた魔獣が暴れ出す。
 要塞のような巨体を振り回して、魔獣は周囲に集まっていたベルギナ軍たちを弾き飛ばす。踏みつぶされる者、石畳に叩きつけられる者たちの悲鳴が木霊する。
 ベルギナ軍は一旦二層の外へ後退していく。
「放て!」
 三層の城壁の上に集合した騎士団は、ヴェルザンディの号令で魔獣に弓矢を降り注ぐ。だが魔獣を取り巻く黒い粘液は弓矢を通すことはなく、触れるものを次々と腐らせていった。
「救護班はまだか! ヴェルザンディ様の手当を!」
 ヴェルザンディは自ら止血をしたものの、包帯の上から血が滲んでいた。
「私に構うな。今は何としても魔獣を討ち取れ!」
 ジーンは城壁を黙々と上り続けていた。悲鳴と怒号が駆け巡る中を、何かに憑かれたように進んでいく。
「ヴァルキュリア、今情報が入りましたが……」
「……何だと?」
 騎士たちの間にざわめきが走る。その情報は騎士たちに言い知れぬ不安をもたらした。
 怒号の中で、ヴェルザンディが呆然とつぶやく。
「……国王崩御」
 国の柱である国王を失い、自らは重傷を負って、そして目の前の魔獣を止めるすべもないことが、勇猛な女性の心に一瞬の迷いを宿らせる。
 だがその時だった。暴れまわる魔獣に向かって金色の光が迸った。
 猛然と魔獣に飛びかかったのは、空を覆うような翼を持つ巨大な灰色のタカだった。その金の爪とくちばしで魔獣の身を貫き、表面の黒い粘液を次々と突き崩す。
 それは伝承の中の光景のようだった。地面を腐らせる黒い化け物を、灰色のタカが引き裂いていく。
「フェルニルだ。聖獣様が降臨されたぞ!」
 騎士たちの間で歓喜の声が上がった。避難をしていた人々も思わず振り返り、その勇壮な姿に一時恐怖すら忘れて魅入る。
 魔獣はその巨体を振り回して、フェルニルを引き剥がそうとする。その身の規模なら魔獣の方が二回りも大きい。それに対してフェルニルは身軽に空を飛び回り、魔獣の突進をかわしては鋭く飛びかかる。
 攻撃を加えるたびに、フェルニルの翼にも黒い粘液が取りついていた。それは黒と白の翼を焼いて、肉を焦がしながら煙を上げる。
 イグラントの人々はただ息を詰めてフェルニルと魔獣の戦いを見守っていた。フェルニルが負けた時にはイグラントは滅んでしまう。そう誰もが考えたが、決して目を逸らすことはなかった。
 今フェルニルは命を賭けて戦っていて、自分たちにはその結果を受け止めるしかないのだと知っていた。
 魔獣の動きは次第に鈍り、黒い粘液はほとんど剥がれてその下から動物の毛皮や牙が見えていた。だがフェルニルの方も黒い粘液に取りつかれて、痛々しいほどに翼の骨を露出させながら飛んでいた。
 フェルニルの右の翼が、ついに黒い粘液で腐ってへし折られた。人々の悲鳴の中、フェルニルは地面に落下してしまう。
 その機を待っていたように、魔獣がフェルニルに一直線に迫る。フェルニルは魔獣に踏み潰される前に、灰色の髪の青年に姿を変えて横に飛んだ。
 人の姿になったイツキはあちこちに火傷を負って折れた右腕をだらりと投げ出しながらも、左手に携えた金色の槍を支えにしてなお立ち上がろうとする。
 その時ようやく、ジーンは城壁の上まで辿り着いた。黒い粘液の下から現れた魔獣の目を見つめる。
(灰色の瞳。やはりあなたは)
「女の子が!」
 ジーンは城壁から飛び降りていた。人々の慌てる声も、遠い出来事のようだった。
 ジーンは落ちる直前に風が自分を受け止めてくれたのを感じていた。人の身長の数倍はある城壁から落ちたのに、ジーンは怪我一つしなかった。
「ジーン、こちらに来てはいけません!」
 イツキが叫んだが、ジーンは魔獣の方に駆けだしていた。
「イツキさん、もう動いちゃ駄目です。……『命じる』!」
 走りながらジーンが叫ぶと、イツキは身を震わせて静止する。
 魔獣は方向を転換して、ジーンの方に突進してきた。ジーンはその前で立って待つ。
 魔獣と衝突しても、ジーンは一歩も逃げなかった。牙がジーンの足を掠めて血が溢れても、触れたところから火傷のような激痛が走っても、魔獣の灰色の瞳を見つめていた。
「潰される!」
 このままでは城壁に突っ込まれてジーンが押し潰されてしまうと、人々が目を覆った時だった。
「ハガネ」
 ジーンの口から紡がれた言葉に、魔獣の全身が震える。
 今まさにジーンを押し潰そうとしていた魔獣は、城壁の直前でぴたりと止まった。
「思い出してください。あなたはベルギナの聖獣、ハガネでしょう?」
 ジーンは落ち着いた声音で語りかけた。
 誰に教えられたわけでもない。だがその名前はひとりでにジーンの中から生まれてきた。
 獣はジーンから体を離してジーンを見つめる。
――なぜご存じなのですか?
 ハガネと呼ばれた獣は、若々しい青年の声で呟く。
――精霊様が与えてくださった、私の真名を……。
 灰色の瞳からどっと涙が溢れる。それは奔流となって地面に水たまりを作った。
 ぶるりと震えて、獣は首を垂れる。
――申し訳ありません。このような姿になり果てて、あなたの土地を汚して。
 ジーンは首を横に振って言う。
「いいえ。聖獣がベルギナの呪いに蝕まれて魔獣になったのは、つらかったでしょう」
 ジーンはそっと問いかける。
「私に何かできることはありますか?」
 瞳を覗き込んだジーンに、ハガネはゆっくりと目礼する。
――もう十分です。私は命の流れに戻るすべを思い出せましたから。
 ハガネは自らの体に牙を突き立てて、そこから赤く流動する球体を取り出す。
――最後にまた主に似た方にお会いできて、幸せでした。
 ハガネは微笑んで、球体に自らの足を乗せる。
――ありがとう。木の国の精霊よ。
 赤い球体が潰れるのと同時に、ハガネは地響きを立てながら倒れた。黒い粘液はその体からすべて抜け落ちて、後には鉄色に輝く立派なイノシシの亡骸だけが残っていた。
 それとともに、ジーンも地面に倒れ込んだ。ハガネの牙で傷ついた両足からは途切れることなく血が流れ出し、全身には痛々しい火傷が広がる。
 イツキは駆け寄るなりジーンを抱き起こしたが、ジーンの意識は既に失われていた。騎士たちもすぐに駆けつけて来て応急処置が行われる。
 その頃城壁の上では、ヴェルザンディがもはや立っていることもできないほどに出血して倒れた。そこに小柄な騎士が馬から飛び降りるようにしてやって来て、ヴェルザンディに駆け寄る。
 小柄な騎士は兜を取る。その下から現れた銀髪と紫の瞳に、ヴェルザンディは愛おしそうに目を細めた。
「しっかりしてくれ! 嫌だ、嫌だよ……!」
 ヴィーラントはヴェルザンディの周りに溜まっていくおびただしい血に、彼女の命が消えゆくことを察して青ざめる。
「殿下。あなたはもう子どもではない。何をすべきかわかっておいでですね?」
 切れ切れの息を吐きながら、ヴェルザンディは何かを待つようにヴィーラントを見上げた。
 ヴィーラントは息をのみこんで、掠れた声で告げる。
「……大義であった」
 国の功労者をねぎらうように、ヴィーラントは言葉を送る。
「きっとお前は天の国に行ける。父上のおられる場所に」
 ヴィーラントは必死で涙を堪えながらヴェルザンディの手を握る。
 ヴィーラントはヴェルザンディが父王を慕っていることに気づいていた。ヴェルザンディはヴィーラントの母の姉で、王に並び立つ者として熱烈に人々に信望されていた。妹の亡き後、望みさえすれば新しい王妃の座につくことさえできただろう。
「お言葉ですが、殿下。私が向かう場所はここだけ。イグラントだけです」
 けれどヴェルザンディは妃の座を求めることはなかった。妹が生きていた間は妹とその夫を見守り、妹の死後は彼女の代わりにヴィーラントを見守り続けた。
「私の死体は、フェルニル殿に捧げてください。もう乙女と呼べる年ではありませんが……純潔だけは保って参りましたから」
 紫色の制服を染め上げて行く血に、ヴィーラントは顔を歪める。
 ヴェルザンディはヴィーラントを見上げて話し続ける。
「民や臣下の声をよくお聞きなさい。あなたを支える者たちに心を配るよう。そして」
 顔から血の気が失われていき、目が濁りながらも、ヴェルザンディは懸命に告げる。
「この大樹の元に生まれた国を、次の世代に残してください。それが王たるあなたの使命です」
「……ああ」
 ヴィーラントが手を強く握り返すと、ヴェルザンディは微笑む。
「ふ。年寄りの説教は長くていけない……」
 太陽が昇ろうとしていた。白んだ空の下で、ヴェルザンディは呟く。
「イグラントに栄光あれ」
 ヴィーラントの手からヴェルザンディの手が滑り落ちる。ヴィーラントの目から涙が溢れた。
 まもなく城壁の上には大怪我を負って意識のないジーンも運ばれてきた。
 フレイアも馬から降りて、ヴィーラントに伝える。
「ベルギナ軍が城壁内に侵攻を再開したわ」
 フレイアはじっとヴィーラントをみつめて告げた。
「私が号令をかけることもできる。でも、あれは私には持ちあがらない」
 フレイアはヴィーラントが馬に積んできた包みを見やる。
 ヴィーラントはジーンを見た。ジーンが見返すと、うなずいて呟く。
「……もう大丈夫だ、ジーン。俺も、俺にできることがわかったよ」
 ヴィーラントは涙を拭って、決然と立ち上がった。
「フレイア、二人を頼む」
 ヴィーラントはフレイアにそう告げてから、ヴァルキュリアの旗をその場に突き立てる。
「聞け! イグラントの騎士たちよ」
 ヴィーラントが声を張り上げると、ヴァルキュリアの死に混乱していた騎士たちが一斉に振り向く。
「我らには聖獣の加護もある。命を賭けて戦ってくれた、ヴァルキュリアもいる」
 馬に飛び乗って、ヴィーラントは馬にくくりつけてきた包みを解いた。紫のアイリスの紋章の刻まれた銀の槍を高々と振り上げて、ヴィーラントは叫ぶ。
「そして我がいる!」
 そこにはこの国の王がいた。その身に決意をまとって輝く青年王がいることに人々は気づく。
「ここからは我々の戦いだ。人が起こした災厄ならば人が乗り越えられる。恐れるな!」
「……ヴィーラント様!」
 民たちから歓声が上がる。騎士たちは槍を掲げて、この国の王に応える。
「俺の前に出るなよ。俺、見えないから斬っちまうぞ?」
 悪戯っぽく笑いかけて騎士たちを安心させると、ヴィーラントは叫んだ。
「行くぞ。我に続け!」
 騎士たちを率いて、ヴィーラントは戦の最中に飛び込んで行った。
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