初恋カレイドスコープ
*
「玲一って呼んで。君は?」
「凛です。高階凛」
普段だったら無視するような、ちゃらっちゃらの誘い文句。
つい乗っかってしまったのは、きっとここがシンガポールだから。この人は私のことを知らない。私だってこの人を知らない。どうせ日本に帰ったところで、二度と会うことはない間柄。
旅の恥は搔き捨てという言葉が、私の背中を後押しした。それに実際、女の一人旅にも限界を感じていたところだ。
「うわあ、すごいなこのノート。凛ちゃん仕事できるでしょ?」
私の用意したスケジュールノートを広げ、玲一さんは感嘆の声を上げる。こうも素直に褒められると、なんだかむずがゆくなってしまう。
「こういうのまとめたり、調べたりするの好きなんです」
「まめだねー、秘書とか向いてそう。仕事は何やってるの?」
「普通の会社員ですよ。今は営業なんですけど、本当は秘書課に行きたくて」
「ああ、やっぱり。そういうの似合いそうな感じする」
ぶつかりあう腕と腕。ちょっと目が合って、にこっと微笑み。特に離れる気配はない。
(この人、本当に距離が近いな)
でも、不思議と嫌な気がしないのは、きっと彼が私を助けてくれた恩人だからだと思う。
そうでなければ、いくら海外とはいえ、私だって見ず知らずの人と並んで歩いたりはしない。わざわざ私をここまで追いかけて、助けてくれたような人だから、ちょっと信じてみようかな……なんて思っちゃっただけで。
(別に、かっこいい人だからOKしたわけではない。……たぶん)
ノートを広げた玲一さんは道端のタクシーを手で止めると、こなれた英語で運転手さんに行き先を伝えている。さすが現地人、流暢な英語だ。私も英語は多少喋れるけど、ここまでスムーズな発音はできない。
「玲一さんはずっとシンガポールに住んでいるんですか?」
「んー、日本とここを行ったり来たりかな。最初にシンガポールに来たとき、俺の英語、笑えるくらい通じなくてね。ちょっと勉強しなきゃなと思って、こっちにも住むことにしたんだ」
玲一さんは話し上手だ。彼の口から次々出てくるシンガポールのエピソードトークは、ずっと日本で暮らしてきた私には想像もつかない話ばかり。そのほとんどが失敗談なのだけど、彼の語り口調があまりにも軽妙だからか、悲壮感がちっともなくてついついぷっと吹き出してしまう。
軽薄な誘い文句への抵抗もいつしかすっかり忘れ去り、私は彼のエスコートに任せてシンガポールを満喫した。一風変わった寺院を見学し、カラフルな雑貨の屋台を眺め、スパイシーなカレーを食べて……。
何を見ても真新しく感じる旅行客の私と違って、玲一さんにとってこの街並みはきっと日常の一部なのだろう。それでも彼はひとつひとつで足を止め、声を上げる私の隣で、いつも一緒に歩幅を合わせて同じ楽しさを共有してくれた。
幸せな時間はあっという間に過ぎ、すっかり日の暮れた街の中を煌びやかなネオンが照らしている。これがよくテレビで映される、有名なマリーナベイ・サンズ。夜空の上を巨大な船が泳いでいるように見える。
「玲一さんもあのプールで泳いだりするんですか?」
「俺? しないよ。水嫌いだもん」
なにそれ。顔立ちだけじゃなくて、そんなところまで猫みたい。
ふっと笑った私を見て、玲一さんはどこか決まり悪そうに口元だけで微笑んでみせる。
「凛ちゃんのノートでは、今日の予定はこれで終わりみたいだけど」
ノートをぱらぱらめくりながら、玲一さんは言う。
「足は大丈夫? もう疲れた?」
「ええと……」
「このままホテルまで送ってもいいし、凛ちゃんさえよければ、もう一か所連れていきたいところがあるんだけど」
正直身体は疲れている。今ベッドに横になったなら、きっと3秒で眠れてしまうはずだ。
でも私は両足に力を籠めると、玲一さんのきれいな顔を力強く見上げてみせた。ほんの少しでも長くこの人と一緒にいられるなら、足の疲れくらい我慢できる――なんて、柄にもなく思ってしまっていたから。
「ぜひ、お願いします」
少し上ずった私の声に、玲一さんはくすっと笑うと、
「どうぞこちらへ」
なんて、おどけてポーズを決めてみせた。
「玲一って呼んで。君は?」
「凛です。高階凛」
普段だったら無視するような、ちゃらっちゃらの誘い文句。
つい乗っかってしまったのは、きっとここがシンガポールだから。この人は私のことを知らない。私だってこの人を知らない。どうせ日本に帰ったところで、二度と会うことはない間柄。
旅の恥は搔き捨てという言葉が、私の背中を後押しした。それに実際、女の一人旅にも限界を感じていたところだ。
「うわあ、すごいなこのノート。凛ちゃん仕事できるでしょ?」
私の用意したスケジュールノートを広げ、玲一さんは感嘆の声を上げる。こうも素直に褒められると、なんだかむずがゆくなってしまう。
「こういうのまとめたり、調べたりするの好きなんです」
「まめだねー、秘書とか向いてそう。仕事は何やってるの?」
「普通の会社員ですよ。今は営業なんですけど、本当は秘書課に行きたくて」
「ああ、やっぱり。そういうの似合いそうな感じする」
ぶつかりあう腕と腕。ちょっと目が合って、にこっと微笑み。特に離れる気配はない。
(この人、本当に距離が近いな)
でも、不思議と嫌な気がしないのは、きっと彼が私を助けてくれた恩人だからだと思う。
そうでなければ、いくら海外とはいえ、私だって見ず知らずの人と並んで歩いたりはしない。わざわざ私をここまで追いかけて、助けてくれたような人だから、ちょっと信じてみようかな……なんて思っちゃっただけで。
(別に、かっこいい人だからOKしたわけではない。……たぶん)
ノートを広げた玲一さんは道端のタクシーを手で止めると、こなれた英語で運転手さんに行き先を伝えている。さすが現地人、流暢な英語だ。私も英語は多少喋れるけど、ここまでスムーズな発音はできない。
「玲一さんはずっとシンガポールに住んでいるんですか?」
「んー、日本とここを行ったり来たりかな。最初にシンガポールに来たとき、俺の英語、笑えるくらい通じなくてね。ちょっと勉強しなきゃなと思って、こっちにも住むことにしたんだ」
玲一さんは話し上手だ。彼の口から次々出てくるシンガポールのエピソードトークは、ずっと日本で暮らしてきた私には想像もつかない話ばかり。そのほとんどが失敗談なのだけど、彼の語り口調があまりにも軽妙だからか、悲壮感がちっともなくてついついぷっと吹き出してしまう。
軽薄な誘い文句への抵抗もいつしかすっかり忘れ去り、私は彼のエスコートに任せてシンガポールを満喫した。一風変わった寺院を見学し、カラフルな雑貨の屋台を眺め、スパイシーなカレーを食べて……。
何を見ても真新しく感じる旅行客の私と違って、玲一さんにとってこの街並みはきっと日常の一部なのだろう。それでも彼はひとつひとつで足を止め、声を上げる私の隣で、いつも一緒に歩幅を合わせて同じ楽しさを共有してくれた。
幸せな時間はあっという間に過ぎ、すっかり日の暮れた街の中を煌びやかなネオンが照らしている。これがよくテレビで映される、有名なマリーナベイ・サンズ。夜空の上を巨大な船が泳いでいるように見える。
「玲一さんもあのプールで泳いだりするんですか?」
「俺? しないよ。水嫌いだもん」
なにそれ。顔立ちだけじゃなくて、そんなところまで猫みたい。
ふっと笑った私を見て、玲一さんはどこか決まり悪そうに口元だけで微笑んでみせる。
「凛ちゃんのノートでは、今日の予定はこれで終わりみたいだけど」
ノートをぱらぱらめくりながら、玲一さんは言う。
「足は大丈夫? もう疲れた?」
「ええと……」
「このままホテルまで送ってもいいし、凛ちゃんさえよければ、もう一か所連れていきたいところがあるんだけど」
正直身体は疲れている。今ベッドに横になったなら、きっと3秒で眠れてしまうはずだ。
でも私は両足に力を籠めると、玲一さんのきれいな顔を力強く見上げてみせた。ほんの少しでも長くこの人と一緒にいられるなら、足の疲れくらい我慢できる――なんて、柄にもなく思ってしまっていたから。
「ぜひ、お願いします」
少し上ずった私の声に、玲一さんはくすっと笑うと、
「どうぞこちらへ」
なんて、おどけてポーズを決めてみせた。