偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
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「鹿子木さん、F社の社長用のお茶請けは準備できていますか?」
俺の問いに、鹿子木が「はいっ」と返事を弾ませた。
三十センチ角の箱を持って、駆けてくる。
俺は、彼女がその箱を開ける前に、言った。
「銀田屋の栗最中はどうしたんですか」
俺が睨みつけた箱は、明らかに銀田屋のものではない。
「あの……、ですね」
鹿子木が引き攣った笑みを浮かべる。
「並ばなかったんですか」
俺は昨日、退社前の鹿子木に遣いを頼んだ。
『明日の出社前に、銀田屋の栗最中を買って来てほしい』と、ショップカードも渡した。
彼女は以前にも何度か銀田屋に行っており、開店が十時なのも、開店三十分前には並び始めないと人気の栗最中を買えないことも知っていた。
もちろん、知っていることは、確認した。
別に早朝から並べと言っているのではない。
秘書課は八時半始業で、九時半に並ぶのだから、むしろいつもよりゆっくりな朝だったはず。たとえ、彼女の家から社屋を通り過ぎて三駅目に、銀田屋があるのだとしても。
「栗最中は……、今日は、その、あ、季節商品と入れ替えで売っていなくて……。紅葉堂の栗最中も人気ですし――」
「――F社社長がお好きなのは銀田屋の、栗最中です」
「ですが、栗は栗ですし――」
「――社長は粒餡がお好みで、紅葉堂の栗最中はこし餡です。使われている栗の種類も違います」
さらに、銀田屋の栗最中はひとつ四百三十円もするのに並ばなければ買えないのに対して、紅葉堂の栗最中はひとつ三百十円で、人気商品は別にあるから閉店間際でもなければ売り切れていることはない。
最近の会社では、来客用のお茶やコーヒーもマシンで淹れたり、ティーパックのこともある。茶請けもないことが増えた。
それが悪いわけじゃない。
淹れても飲まれなければ無駄になるし、その都度変わる好みを把握するのは大変だ。
それでも、栗最中ひとつで喜んでくれて、気持ち良く仕事の話ができたなら、それは無駄になった飲み物よりも価値があると思う。
少なくとも、現重役たちはそう考えている。
俺たち秘書は、担当役員の業務を円滑に進められるようにサポートするのが役目であり、そのために栗最中が必要ならば用意する。
いくら大人げなくても、いつも用意されている栗最中がないとなれば、少なからずがっかりするし、不機嫌になったりするものだ。
俺は腕時計に目を落とした。
予定の時間まであと一時間。
俺はポケットからスマホを取り出し、青ざめている鹿子木に背を向けた。
今回のことはミスとも言えない職務怠慢だが、それでも謝罪も、ミスをカバーするための行動もないのは、社会人として未熟すぎる。
こんなんで、よく専務秘書になりたいなんて言ったもんだ。
今まで幾度となく指導してきたが、無意味だったようだ。
「俵室長」
室内の誰もが聞かぬ存ぜぬを貫く中で、如月さんが立ち上がった。
今日の皇丞は、午前は広報部の業務に就くため、彼女は秘書室でデスクワークをしている。
彼女は、鹿子木が持っている箱より少し小さな真っ白い箱を持って、俺のそばまで来た。
至近距離で見下ろし、箱の隅に銀田屋の名前と賞味期限が書かれたシールを見つける。