偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~

 彼の言うその感情が嬉しいと感じる私がいる。

 鹿子木さんが私を嫌っていたのは知っている。

 自分がなりたかった専務秘書に、私がなったから。

 秘書らしい仕事は与えてもらえず、事務仕事に文句を言いながら適当に処理していた。

 お遣いすらまともにできない。

 私が彼女の上司なら、理人同様、いや理人以上にキツイことを言っていただろう。

 けれど、理人が怒ったのはそんなことじゃない。

 私を悪く言ったから。



 それが、こんなに嬉しい……。



「だから、鹿子木さんが理人を盗撮して噂を流した……ってこと?」

「状況的に見て、そうだろう」

「だとしても、理人が私に謝る必要は――」

 そこまで言って、気が付いた。

「――私の噂って?」

 理人の表情が、わかりやすく強張る。

 相当、よくない噂なのだろう。



 それも鹿子木さんが流したのなら、頷けるけど。



「教えて」

「……りとが、前の職場で上司と不倫してた……って噂だ」

「――っ!」

 ドクンッと心臓が跳ねる。

 違う。

 止まった。

 一瞬だけ。

 心臓が跳ねるのを阻止するかのように、強く握られたようだ。

「それに関しては完全にデマだ。俺のもデマではあるが、どうでもいい。りとの不名誉な噂は、鹿子木の父親を通して――」

「――どうしてデマだと思うの」

「え?」

 言う必要はない。

 だって、デマだ。

 それでも、黙っているべきではないと、私の理性が訴える。

 そして、感情は唇を錆びたシャッターのように重くした。

「どうしてデマだと思うの?」

 人間とは不思議な生き物だ。

 目を逸らしたい。

 なのに、逸らせない。

 彼の瞳に私への失望が映るのを、見たくない。

 なのに、じっと見つめたまま、動けない。

 怖いもの見たさだろうか。

 それとも、ちっぽけな意地だろうか。

 私は、太もものパジャマの生地をぎゅっと握った。

「私は――」

「――りとの経歴や以前の職場での評価については調べてある」

 わかっている。

 入社時に、他部署に入社するより詳細に調査されていることは。

 けれど、会社が隠そうとする情報までは知り得ない。

 いつもは気にならない、キッチンのカウンターに置かれた時計の秒針が、耳に押し付けられているかのように大音量で聞こえる。

 それも、やけにゆっくりと。

 吸い込んだ酸素が、冷たく感じた。

「会社が隠していたら……わからないでしょう?」

「……隠す?」

「そう。重役と秘書の不倫なんて、会社が言うわけないじゃない」

「……どうかな。今時、完璧に隠蔽なんてできないだろう」

「……そうね。でも――」

「――勿体つけた言い方をするな。りと、不倫したのか」

 清々しく直球で聞かれて、思わずははっと笑ってしまった。

 笑い事じゃない。

 でも、笑えた。

 理人が、まるでどうでもいいことのように聞くから。

 普通、聞きにくそうにしたり、まさかと思いながら真剣な表情で聞くんじゃないだろうか。

 なのに、すごく面倒くさそうに聞くから。

 そんな態度を取られたら、素直に答える気も失せる。
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