ファーレンハイト/Fahrenheit
 午後十一時四十六分

 捜査員用のマンションがあるブロックは一周五分だ。隣のブロックと合わせて、マンションの部屋に戻るまでの十五分間を歩きながら四人で打ち合わせをする事になった。
 内容はもちろん山野の事だ。
 チンパンジーの須藤は俺の兄と同期だが、兄と違って出世を選んだ。兄とは高校時代から友達で親しく、弟の俺の事を目に掛けてくれている。

「山野だけど、俺はもう一回、米田に言う。だって敬志がこれじゃ――」

 俺は一時間前まで、優衣香と一緒にいた。
 なんで一時間でこんな状況になってしまったのか。葉梨と一緒に署へ行った時、捜査員の補充があるとは言われたが、それがまさか山野花緒里だとは思いもしなかった。

 俺は一時間前まで、幸せだった。俺は優衣香を抱きしめてキスして手を繋いでバーに行って、俺が頼んだペンネ・アラビアータはいつもよりすっごく辛かったけど、優衣香が一口食べたいと言うから俺があーんしてあげたら優衣香が笑ったから辛さなんてどうでも良くなったし、ペンネ一つでも辛かったらしくて優衣香の鼻の頭にうっすら汗が浮いたのも可愛くて、食後にはオランジェットを優衣香が俺にあーんしてくれてすっごく嬉しくて、俺が笑ったら優衣香も笑って幸せだった。

 バーの帰り道は優衣香とまたおてて繋いでルンルン気分で信号待ちでまたチューして、駅ではウッキウキで優衣香の姿を見送っていたのになんでこんな事になったんだ。
 でも俺は優衣香をギューしてチューしたからあと一週間は寝なくても平気だ。多分俺は、優衣香を抱いたら一ヶ月は寝なくてもイケると思う。いやイケるってそういう意味じゃないけど、でもまあ思い出したら絶対にイケる。自信ある。だってこの前ベッドで薄い布越しに優衣香の肌身の柔らかさを初めて知っただけで俺、それだけで俺、って違う、そうじゃない。俺は優衣香を抱いたら俺は一ヶ月は寝なくて――。

「――さん! なが――、松永さん!」
「んっ? 何?」

 ――ごめん、一ミリも聞いてなかった。

 須藤と相澤、そして加藤の顔を見ると、全員揃って同じ顔をしていた。

 ――それってもしかして憐憫の眼差しかな?

「あの……すみません、お話をもう一度、お願い出来ますか?」

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