ファーレンハイト/Fahrenheit
 須藤が右手のホワイトボードに書き込んでいる間は、俺はじっと正面にいる女性捜査員を見ていた。彼女の目線に合わせるように椅子に浅く座り直し、椅子にもたれた。目が合うが、彼女は目を伏せてしまう。俺は腕をテーブルに出した。

 ――俺が正面の女とペアを組む、と。ああ、そうですか。

 指先をテーブルに付けてピアノでも奏でるような指の動きをすると、相澤、加藤、葉梨、反社の四人が反応した。それぞれ決められたサインを寄越したのを確認してから、俺はまた椅子を座り直して元々の姿勢に戻り、指を組んでテーブルに置いた。
 彼女はこちらをチラチラ見るが、俺がじっと見たままな事が分かり、次第に彼女の表情が曇っていった。

 ――何でお前なんだよ。

 この女性捜査員は山野(やまの)花緒里(かおり)だ。三年前、俺に付きまとった女で年齢は二十九歳になったはずだ。事の詳細は相澤と加藤が知っているし、問題の引き金を引いたのは加藤だ。

 ――また米田から刺客かよ。面倒くせえな。

 須藤の説明を聞き終えると通常ならば皆一通り自分の意見を言うが、今日は誰も何も言わない。だが、加藤が何かを言おうとして、相澤が制止した。
 俺はそれを横目で見て、山野から目線を外して下を向いて小さく息を吐いた時、加藤が相澤の制止する手を取り、相澤の太ももに落として、口を開いた。
 山野は加藤を見た。加藤が何を言うのか不安なのだろう。
 
「私が松永さんのペアになるのはいけませんか? 山野のペアは相澤でどうでしょうか」

 加藤は続けて、ハイヒールを履くと相澤の背を超えてしまう事、低い靴だと服装と靴がちぐはぐになる事で違和感を持たれる事、だから背の高い俺と組みたいと言ったが、話している間、加藤は相澤の手の甲に触れて指先に力を込めていた。
 暗に背が低いと言われた相澤だったが、加藤の意図は当然理解していて、「俺も山野の方がちっちゃいからペア替えしたいです」と言った。相澤は右手人差し指で加藤の手のひらに二回触れて離し、それを受けた加藤は相澤の手をそっと二回、触れて手を離した。
 山野は落胆を隠そうとしているが、俺には分かる。相澤も気づいたようだ。

「あー、まあ、そう言う事なら……でもな……」

 チンパンジーの須藤はそう言いながら、俺を見た。目線が合い、俺は須藤が言いたいであろう事を口にした。

「米田さんが、山野は松永にと言ったんですよね。でしたら俺は従うだけです。どうぞ、そのままで結構です。俺は、従うだけですから」

 そう言って、指を組んでいる右手の親指で三回、左手親指の爪に触れた。
 それを横目で見ていた相澤と加藤は同時にテーブルの上に手を置いた。加藤は組んだ指をテーブル手前に置いて、相澤は手のひらをテーブルに付けて腕を伸ばして壁と天井の境目を見た。それを受けて、反社は腕組みをして椅子にもたれて、葉梨は太ももに手を置いて下を向いた。

 ――反対が一人、いる。



 会議終了後、チンパンジーの須藤と俺、相澤と加藤だけで外へ出る事になった。
 葉梨も反社も、俺と山野の件を直接は知らないが、噂は耳にしているだろう。
 二人は野川が俺を尾行した事はもちろん知っているし、野川は米田の刺客だということも知っている。そしてまた、女性捜査員が来た。
 皆分かっている。山野(やまの)花緒里(かおり)は野川里奈より厄介だ、と――。

 加藤は反社と葉梨とで何かを話していたが、葉梨は眉根を寄せた。目つきも変わった。
 加藤が話し終えると二人は加藤に頭を下げたが、二人に背を向けてこちらにやって来る加藤は、歯を噛み締めていた。

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