ファーレンハイト/Fahrenheit
第6章

#01 初めての経験

 一月十日 午前二時四十ハ分

 走る車のヘッドライトが煌々と輝いている。暗い道を照らすその灯火はどこか暖かく感じられた。だがそれも束の間のことだった。通り過ぎる街の景色は徐々に暗くなっていき、やがて街灯だけがぽつりぽつんと立ち並ぶだけの風景へと戻る。

『明けましておめでとうございます。久しぶりの御来店を心よりお待ちしております』

 バーテンダーの望月からメッセージが届いたのは、約三時間前だった。

 ――急ぎの連絡か。何だろう。

 ◇

 いつものようにカウンター席の端に腰掛け視線を上げると、バーテンダーの望月がグラスを拭きながらこちらを見た。グラスを置くと、「明けましておめでとうございます」そう言って彼は恭しく頭を下げる。店内は客もなく、深夜の訪問のいつもと変わらず、とても静かだ。

 目の前に置かれたグラスの中には琥珀色の液体が入っている。一口飲むと、心地よい冷たさが喉を通り抜けていった。モヒートジンジャーエール――。

 グラスの中で揺れるミントの葉を見つめていると、望月が口を開いた。

「最近、いつ、笹倉さんと会いました?」

 十二月九日の夜、優衣香とこのバーで過ごした後、駅までの帰り道で、このバーに来た時は連絡が欲しいと伝えた。行く前ではなく、行った後で良いと俺は伝えた。
 直近のその連絡は、望月からメッセージが届いた一時間前だった。

「ここに連れて来て以来、会ってないよ」
「えっ……、じゃ、ひと月も?」
「そうだよ」

 優衣香のマンションに訪ねて行った十一月九日から、本来なら会えないはずだったが、俺はおばさんの命日にどうにかして時間を取った。そしてここで会えたのはたまたまだった。優衣香のマンションに行くのはだいたい二ヶ月に一回のペースだが、長い時で八ヶ月の時もあったし、十一月九日は半年ぶりだった。

「そっか……」
「何よ? 話してよ」

 望月の目は俺を責めるような目をしている。だが俺がカウンターを指で叩いているのを気にして、話し始めた。

「笹倉さん、すごく痩せたから、心配でさ。病気ってわけではなさそうだけど……」

 優衣香は幼稚園の頃からスイミングスクールへ通い、小学生の時は少年野球チームに混じってたし、中学も高校も部活動をしていた活発な女の子だったから、肩幅も広く、骨格もしっかりしている。顔が丸顔だから太って見えるが、太っているわけではない。痩せてもいないが。
 
「ああ、確かにここで会う前に会った時、少し痩せたなとは思ってた」
「そうなんだ」
「……会いたいけど……難しいよ。俺、自宅にもひと月半、帰ってないし」

 今、優衣香は俺の恋人だ。だが恋人としてやってやりたい事は何一つ出来ない。このバーに来た時は連絡してくれと俺が言ったから、優衣香は連絡をしてくれるのであって、その他の連絡は一度も無い。

 ――それって恋人じゃないよな。

 俺とクリスマスも正月も一緒に過ごせず、連絡すら無い。俺がどこで何をしているのか、どんな仕事しているのかすら知らない。でも、そんな男が恋人で良いと、優衣香はそれでも良いと、俺を好きだと言ってくれた。

 優衣香に男がいる時にカップルが仲良くしている姿を見ると、心の中で悪態をついていた。だが今は優衣香が俺の隣にいない事、優衣香の隣にいてやれない事を考えるようになった。

 ――他人が優衣香の変化に気づいているのに、また俺は何も知らなかったのか。

「モッチー、教えてくれてありがとう」
「あ……いえ。何か……あったのかと、思いまして、ね」
「……ああ、ありがとう」

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