ファーレンハイト/Fahrenheit
 武闘派の優衣香は、打倒敬志をスローガンに兄と特訓する日々で、柔道が面白いと思ったようだった。中学では柔道部に入ろうとしたが、優衣香の両親が必死に止めた。
 特訓の成果が出て、隣に住む同い年の男の子を足払いしている愛娘の姿に、「違う、そうじゃない」と思ったのだろう。
 結局、部活はバレーボールを選んだ。
 竹刀では、後ろから飛んで来るバレーボールはどうにも出来ないと分かり、やっぱり柔道をやっていれば良かったと後悔した。柔道でも無理だが。

 子供の頃は、仲良く遊ぶ時と、理志に関する事でケンカをする時があった。仲良しだったけど、ショートヘアで男の子みたいだった優衣香に恋をする日が来るとは思わなかった。
 十四歳に抱いた恋心を、二十二年も持ち続けるとも思わなかった。

 二十二年経って、やっと手に入れた優衣香が、今、俺の腕の中で笑ってる。

 ――優衣ちゃんの笑顔が大好きです。

 優衣香がいてくれるから、俺は生きていける。
 優衣香が笑顔でいてくれるなら、俺は幸せだ。

 ――でも、マッチョしかいないあのジムは、ちょっとな……。

「優衣ちゃん、スポーツをすれば良いんじゃない?」
「ん? 格闘技?」
「それだけはやめてって、言ったよね」
「んー」

 優衣香と駅前でばったり会った二十歳のあの日。
 ショートヘアになった優衣香に気づかなかったあの日。
 優衣香がショートヘアになった事がショックだったけど、それよりも俺は焦った事があった。
 優衣香はチラシを持っていた。
 その文字は、優衣香に倒されて、勝ち誇る優衣香の顔を仰ぎ見た日の記憶を呼び起こすものだった。

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 ――おかあさん。ぼく、女の子は弱くていいと思う。
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