ファーレンハイト/Fahrenheit
 同時刻

 捜査員用のマンションのリビングに、相澤裕典と葉梨将由がいた。
 二人は事務処理をしている。
 松永玲緒奈が来る前に済ませておかなければならない事務処理が終わらないようだ。

「相澤さん、コーヒー飲みますか?」
「うん、お願い。ありがとう」

 キッチンへ行った葉梨を横目に、パソコンに向かう相澤は大きな欠伸をした。

 ◇

 コーヒーを淹れてリビングに戻って来た葉梨は、相澤はなぜ松永玲緒奈が苦手ではないのか聞いた。相澤は、「多分、松永さんのお父さんに可愛がってもらったからだと思うよ」と答えた。
 葉梨は初めて聞いた話だったようで、相澤に詳細を求めた。

「子供の時、腕を掴まれて車道に放り投げられてね、その時に臨場したのが松永さんのお父さんだったんだよ」
「えっ、そうだったんですか」
「うん、俺はずっと泣いてて、松永さんのお父さんが抱っこしてくれてね、それから署の少年柔道に通うようになって、採用試験の時に松永さんのお父さんみたいな警察官になりたいですって言ったんだよ」

 葉梨は二年間だけ相澤と同じ所轄にいた事もあり、付き合いは長いが、初めて聞いた話を楽しそうに聞いていた。

「玲緒奈さんは加藤の指導員で、俺の事はもちろん松永さんのお父さんの事もあるけど、一番は加藤のボディガードとして、俺が言われた通りちゃんとやっていたから優しいと思う」

 相澤は、その言葉で葉梨の目が動いた事を視界の隅に入れていた。

「ボディガード?」
「そう。加藤は美人だから先輩達から飲みに連れて来いって言われて、加藤は嫌がったけど、俺がいるなら良いって言うから、毎回俺はボディガードとして行ってた。あ、今でもだけどね。ほら、岡島と飲んだ時、葉梨が加藤と初めて会った日もそうだよ」
「そうだったんですか」
「玲緒奈さんは、同業の飲み会には必ず俺と一緒に行けって言ってたから。でも……」

 言い淀んだ相澤と葉梨は目線を合わせると、相澤は口元を緩めた。

「一回だけね、玲緒奈さんにものすごく怒られた事があった。官舎に帰ったら部屋の前に玲緒奈さんと加藤がいてね、部屋に入れたんだけど、玄関の鍵を締めた瞬間に玲緒奈さんに殴られた。ふふふ」

 驚く葉梨に、相澤は続けた。

「玲緒奈さんを止めようとした加藤は蹴られて泣き出すし、俺はボッコボコにされるし、寝てた松永さんが起きてきてさ、玲緒奈さんを必死に止めてた」
「えっ……なんで……怒られたんですか」
「…………言えない。でも、俺の責任。だから、仕方のない事だった」

 その時の事を思い出したのか、相澤は目を伏せた。

「松永さんが後輩の指導が至らなかった自分の責任だと言ってね、玲緒奈さんに土下座して場を収めたんだよ。松永さん、ボッコボコにされて鼻血出てた。でもね、松永さんがいなかったら、俺は病院送りになってたと思うよ、ふふふ」

 葉梨は何があったのか聞きたいのか、相澤の目を探るが、無理だと悟ったようだ。その葉梨の表情の変化を見た相澤は、「加藤は足が速いからね。無事だったよ」と言った。

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