ファーレンハイト/Fahrenheit
 午前八時五十八分

 ハンバーガー屋までの道すがら、葉梨の話を聞いていた俺は、脳内の妄想カタログのページをめくっていた。まあ、要は現実逃避だ。玲緒奈さんが捜査に加わるからと現実逃避で優衣香に会いに行き、妄想カタログに随分とページが増えたなとルンルン気分でマンションに戻って来たのに、また現実逃避しなきゃならないのか。相澤が加藤の前で合コンの話をしたと言う。

 ――いいよ、優衣香のおっぱい揉んだから土下座くらいしてやるよ。

「ゴリラめ」
「ただですね、あの……もしかして、相澤さん、俺と加藤さんの事を知ってるんじゃないかと思いまして……」

 ――さすが葉梨くんだね! ぼくもそう思ってる!

「何で? 何か言われたの?」
「いや、合コンの話をした時に、違和感があったので」
「ふーん」
「加藤さんが言わせたのかとも思いました」

 相澤が合コンの話をしたタイミングと、加藤の表情に違和感があったと言う。二人だけが分かる符牒があるのではとも葉梨は言った。

「今回は二年ぶりだけど、一緒に仕事する事もあったから、二人だけの符牒もあるだろ。それに仲の良い同期だし」
「あの、もしかして、加藤さんの男って、相澤さんなんですか?」
「んなわけねえだろ。相澤の好みってポンコツ野川みたいな小動物だぞ? 女教師モノに食指は動かねえよ」

 ――葉梨は俺を試してる。

「葉梨、お前、本当に加藤の事、好きか?」
「えっ、はい」

 おそらく、須藤経由で相澤は加藤と葉梨の関係を知ったのだろう。加藤が話したとも考えられるが。

 雪の日、電車が止まった影響で相澤は加藤の家に行った。滞在時間は六時間程か。話し合いも出来ただろう。だが俺はその件も含めて、相澤と加藤の関係にもう何も言わないし聞かないと決めた。
 もちろん葉梨と加藤の関係も、と言いたい所だが、こっちはそうもいかない。だって俺が二人がデート出来るようにしたから。責任がある。
 それに、恋する奈緒ちゃんのウッキウキな姿は微笑ましいから見ていたい。

「お前は秘密を守るか?」
「はい」

 俺と葉梨の背丈はあまり変わらない。立っていて目線を下にやらずに話せるのは、今は葉梨だけだ。

 返事をした葉梨の目の奥の色を探る。
 葉梨は信用出来ると思った。

「相澤と加藤の関係については、否定も肯定もしない」

 俺の返事の意味を考えているのだろうか。表情も目も変わらないが、返事をしない。

「葉梨、あの――」
「諦めた方がいいですか?」

 それはお前が決めろよ、と言いかけたが、目の奥に不安そうな色を湛える葉梨に、俺は言えなかった。
 嫉妬も憎悪も目の奥に無く、ただ不安そうにしている。欲しいものを手に入れかけているのに、手に入れられない苦悩は俺にも分かる。辛いだろう。

 ――加藤の事を、真剣に考えてるんだ。

「葉梨、あのさ、……お前は、加藤を待ってやる事は、出来るか? 俺は待ってやって欲しいと、思ってる」

 伏せていた目を上げて、俺の目を見た葉梨の目には明るさが戻った。

 ――どうなるかは知らないよ。

「葉梨、俺は加藤の味方なんだよ。俺は加藤の相手がお前なら良いだろうと思って時間を作ってやった。それだけは、覚えておいて」

 俺の目を見て、元気に「はい」と言って頷いた葉梨の口元にエクボが出来て、俺の頬は緩んだ。

 ――玲緒奈さんは、相澤と加藤をくっつける為に十年以上も奔走してるけどね。

「頑張れよ」と葉梨の肩を叩いて、ハンバーガー屋へまた歩き始めた。
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