ファーレンハイト/Fahrenheit
 加藤が処女だなんて、そんな事は無いだろう。付き合った男はいたと聞いているし、デートしてる所だって一度だけ見た事がある。

「あの、本当なんですか?」
「そうだよ。あの子が私に嘘をつけると思ってるの?」
「…………」

 玲緒奈さんは、俺が加藤の初めての男だったと分かりショックだったが、なんとなく違和感があって俺を問い詰めたと言った。

「多分だけど、敬志が加藤を守ったんでしょ?」
「あー、……まあ、そうです、ね」
「良かった。敬志、ありがとうね。本当にありがとう」

 警察官全員が品行方正なわけがない。ただでさえ少ない女性警察官で、美人な加藤が狙われないわけがない。
 相澤の目が届かない時、加藤は危機的状況に陥った事があった。だから、玲緒奈さんは俺も監視役にした。

 十九歳で兄を見初め、交際し、結婚をして二十三歳で子供を産んだ玲緒奈さんには無縁な話だったが、だからこそ見えてくるものがあったのだろう。

「葉梨に恋する加藤がさ、可愛いくて可愛いくて」

 微笑む玲緒奈さんは、優しい女の人だった。

 ――そっか、初めては裕くんに捧げたのか。

 長い片思いは叶わず終わったのに、晴れやかな顔をしていたのはそのせいだったのか。加藤にとっては幸せな結末だったのか。

「葉梨は、加藤の事を真剣に考えていますよ」
「でしょうね。葉梨はいい男だよ」
「……そうですね」

 また歩き出した玲緒奈さんは、「葉梨は敦志と似てるんだよ」と言った。兄に顔も性格も似ていないと思い、首を傾げると、玲緒奈さんは「敦志は私以外の女には男を見せないんだよ」と言った。

 ――ああ、加藤は玲緒奈さんにそう教育されていたのか。

「ごちそうさまです。ふふっ」
「ふふっ……」
「敬志もでしょ」
「ああ……まあ」
「優衣香ちゃんと早く結婚しなよ」
「……はい。それは考えています」

 俺の少し前を歩く玲緒奈さんの足取りは軽い。
 反社とインテリヤクザの間くらいの顔をした兄は、結婚記念日と玲緒奈さんの誕生日に必ず十二本の深紅の薔薇と手紙を贈っている。

 七年前、俺も加藤を監視するように命令した時、玲緒奈さんはこう言った。

「加藤もね、好きな男と結婚して、幸せになって欲しいんだよ。だからお願いね」

 一つ年下の男の子に一目惚れした十九歳の女の子が、そこにいた。
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