ファーレンハイト/Fahrenheit
 スーパーで買い物を済ませて車に乗って、優衣香がサイドブレーキを解除しないうちに俺は優衣香の名を呼んだ。こちらを向いた優衣香の頬に手を添わせて顔を近づけると優衣香も顔を寄せてきて、軽く、唇を重ねた。

「優衣ちゃん、今夜、やっと、続きが出来るね」

 額をくっつけて優衣香の目を見ると、恥ずかしそうに目を伏せて、可愛いなと思った。

 ――三回戦は出来るな、ああ、俺なら出来る。二回と一回だ。連続三回は無理だけど。

「あのね、ちょっと仕事が終わらなくて、なんとか終わらせるように頑張る。でも敬ちゃんは寝てても良いからね」

 ――あのっ! いっ一回は、一回は出来ますよね!?

「うん、優衣ちゃん、仕事大変だね」
「あー、うん……ごめんね、せっかく会えたのに」
「ふふっ、良いんだよ」

 ――良くないよ! 事件も事故も無くなれば良いのに!

 優衣香が言うには、検察で閲覧謄写した刑事記録と事故発生当初の聴取内容に乖離があり、とっても困った事になっていると言う。『保険会社の片方が全額払う事故じゃない』と。
 守秘義務があるから詳細は言わないが、署に出向き、交通捜査課で担当警察官とも話したと言っていた。

「交通捜査課の福岡さんって、良い人だった」
「あー、知ってる。黒縁の眼鏡かけてる奴だ」
「そうそう」
「でも、捜査の事は話せないでしょ? それにもう起訴されてるし」
「うん。でもね、私の事情もちゃんと聞いてくれて、その上で話せる事は話してくれた」

 ――ああ、他は話をまともに聞かない奴ばかりだから、優衣香はそういう言い方をするのか。

「福岡さんね、私が持ってた判例タイムズを興味深そうに見ていてね、当該事故の過失割合について質問してきたの」
「民事は関係ないのに?」
「そう。福岡さんに『後学のために教えて下さい』って言われた」
「あー、福岡はそういう奴だよ」
「真面目で向上心のある人なんだね」

 ――それは刑法を思い出そうとすると脳内映像にモザイクがかかるぼくへの当てつけかな。

「うん、福岡はそうだよ」

 今日は優衣香に会えてウッキウキなはずなのに、なんだか少しずつライフが減少していくような感覚になっているが、俺は気にしない事にした。
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