ファーレンハイト/Fahrenheit
「今ストレートパーマやって、次はカラーで、最後にカットするよ」
「時間かかるよね?」
「そりゃ。時間になったらまた来るよ」
「はいよ」

 普段美容院のこの待ち時間は雑誌を読んでいるが、今日は野川を連れているから野川と美容師の会話を聞いてみようと思った。
 事前に弟経由で警察官である事は伝えてあるので職業や仕事に関する事に美容師は触れないが、話を聞いていると若干、危ない気がする。野川は警察官になって六年だが、ポンコツ故に危機感が無い。こんなのとペアを組むのは本気で嫌だが、仕方ない。相澤とペアを組んだ加藤の方が俺と見た目が合う。年齢もそうだが、何よりも彼女の能力があると俺はとても助かる。

「好きな人がいます」

 若い女の子の声なら微笑ましいで済む言葉も、ここで聞くのはよろしくない言葉――。

 その声の主である野川の姿を鏡越しに眺める。相澤の事を言っているのだろう。官舎で同室の仲の良い俺に聞かせたいのか。まあ、野川ならそのままで相澤はコロッといくだろうが、俺は反対だ。だってこのポンコツは信用出来ないから。

――裕くんには先約がいるから諦めな。

 ピピッとタイマーが鳴って、弟がこちらにやって来た。肩に巻いたタオルで頭を巻き、奥にあるシャワー台へ向かう。
 やっと野川から逃れられる事に安堵のため息が出た。

「なに、疲れちゃった?」
「いや、アレがもう嫌になった」
「ふはっ! もう?」

 薬液を流している間、弟は優衣香が来店した事を話した。

「ああ、家にシャンプーがいつもと違うのがあった。ここで買ったの?」
「そうそう。女の子の香りがするシャンプーね」
「ふふっ」
「優ねえは、もう私は女の子って年齢じゃないよと言ってたけど」

 弟は優衣香の事を『優ねえ』と呼ぶ。歳の離れた弟を優衣香が弟のように可愛がった。弟が幼い時に上手く名前を言えなくて、『優衣香おねえちゃん』を略して『優ねえ』と呼んでいた。

「美容師さん、そのシャンプーのあまーい記憶がポンコツ野川に上書きされて、ぼくとても辛いんです」
「ふはっ! 最悪だ、そりゃ」

 野川の席からは女性美容師と仲良く話す声が聞こえる。言葉の端々に相澤の事を言っているのだと思われる言葉が散らばっていた。
 それを聞きながらため息をつくと、弟は後で炭酸ヘッドスパやってあげるよ、と言った。
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