ファーレンハイト/Fahrenheit
 しなだれかかる加藤は左手も腕に添わせてきた。その手に力が込められて、顔を上げた加藤が口を開いた。

「ねえ、相澤」
「……うん?」
「あんた動揺してるでしょ?」
「うっ」
「バカなの?」

 大きくため息を吐いた加藤は語り始めた。松永さんとペアを組んでいる野川が俺の事が気になっているらしいと。俺と同期である加藤に、俺の事を聞き出そうとしている姿は若い女の子として考えたら可愛いが、どうにも加藤は気に入らないと言う。

「野川って、あんたタイプでしょ?」
「あー、うん……」
「……あのさ、ベンチでやったのとコレ。私じゃなくて野川だったら、あんたコロッといくでしょ?」
「うん」
「バカなの?」
「何度も言わないで! 分かってるよ! もう!」

 実は松永さんからも野川の件は言われている。松永さんはペアを組んで毎日観察しているが、どうにも信用ならないと。それは仕事ではなく、彼女個人が信用ならないと言っていた。

「十歳も歳が離れてるゴリラを好きになるなんて天変地異でも起きるのかなと思ったけど、ちょっと私は……あの子はおすすめ出来ない」
「天、変、地異」
「ゴリラには触れないの?」
「ゴリ……いいよ続けてよ、ゴリラは事実だから」
「……野川がさ、刑事課の間宮さんが女とラブホに行く所を見たって言うんだよ」

 心臓を鷲掴みにされたみたいになった。
 頭に浮かぶのは笹倉さんの顔、そして笹倉さんの車の脇で楽しげに話す二人、間宮さんに駆け寄る笹倉さんの後ろ姿。

「……いつの話?」
「えっ……あー、十三日の午前中に連絡来たから十二日じゃないかな」

 ――署で笹倉さんを見た日は十二日だ。

「それで?」
「ああ、その時、一緒にそれを見てた松永さんにマジギレされたんだって」

 ――松永さんも見たんだ。

「……何で?」
「私にバラそうとしたから。だから秘密は守れ、秘密は魂と同じだってマジギレされたんだって」
「ああ、だろうね。でも結局それ含めて奈緒ちゃんに喋っちゃってる、と」
「そうそう」
「奈緒ちゃんも俺に喋ってんじゃん」
「私、一度流出した情報は全力で拡散するよ?」
「奈緒ちゃん!」
「私が見たんなら誰にも喋んないよ」

 その後も加藤は野川の懸念材料を話していた。
 松永さんから言われた事や素行、服装、ヘアスタイル、使っているスタイリング剤までも話していると。

「そういうの米田に全部筒抜けだよ」
「えっ?」
「そういう魂胆でペア組ませたんじゃないの?野川と松永さん」
「……なんで?」
「私は情報漏らさないから」
「そっか」
「まあ、多分、女関係とか、弱点を知りたいんじゃないのかな」
「ああ……」

 聞いた事はある。
 米田さんが本気で惚れた女は、実は松永さんが結婚しちゃったから諦めて米田さんと付き合ってたらしい。その女は、松永さんの離婚を知って米田さんをさっさと捨てた。それを今だに恨んでいると聞いたことがある。

「そういえば相澤って同業に手を出した事は無いよね、確か」
「うん、無い」
「それが良いよ」

 監視対象者を視界に入れて端にいる加藤を見るが、そんな事を言われてしまうと、なんとなく、加藤がずっと身体を寄せたままでいる事に居心地の悪さを感じてしまった。そっと離れたが、それを横目で見た加藤が舌打ちした。

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