ファーレンハイト/Fahrenheit
「あの……相澤さん」
「はい」
「お茶、冷めちゃいましたから入れ替えます」
「ああ、お構いなく」

 手を付けていなかったティーカップを手に取ると、香りに一瞬戸惑った。その俺の姿を見ていた笹倉さんはジャスミンティーですよと言った。

「相澤さんはジャスミンティーを好むと松永さんから聞いたことがありまして……」
「ああ、お心遣いをありがとうございます」

 昔付き合ってた女性が好んだジャスミンティーを俺はずっと好きでいる。飲んでる間だけ、その女性を思い出す為に飲んでいるだけだ。本当はジャスミンティーは好きではない。

「香りが好きなんです。たまに飲みます」
「そうなんですか」
「最近は炭酸水を飲んでます。松永さんはお茶かミネラルウォーターを飲んでますよ。甘いのは好きではないようです」

 こちらを向いた笹倉さんは、少しだけ口元を緩ませた。
 毎年お線香を上げに笹倉さんのマンションに伺っているが、笹倉さんは松永さんの話を一切しない。俺と松永さんが同じ官舎で同室なのも知っているし、仲が良い事も知っている。松永さんからも俺を信用していいと笹倉さんに伝えたと言われた。それでも笹倉さんは松永さんの話を一度もした事がない。
 訪問後に松永さんから笹倉さんの事を聞かれて、笹倉さんの状況や状態は見たまま聞いたままを話すが、松永さんの事は何も聞かれていないと話すと、松永さんは毎回不満そうな顔をする。
 笹倉さんは、本当は松永さんの一番近くにいる俺にいろいろと聞きたいのだろう。だが、言える事と言えない事がある。聞かれたら言える事だけは答えるのに、何も聞いて来ない。

「笹倉さん」

 いつもの俺とは違い、まるで取調べのような訪問になり、不安そうな顔をする笹倉さんに申し訳なく思った。言う必要はないだろうが、少しでも元気になって欲しくて俺は松永さんの事を話し始めた。

「十一日の夜、松永さんは笹倉さんに電話しましたよね。その電話を切った後の松永さんなんですが――」

 自分の知らない松永さんを知る事はないであろう笹倉さんは、不安と好奇心が綯い交ぜの目をしている。

「笹倉さんは電話を切る際に松永さんへ何と言ったか、覚えてますか? 松永さんは顔を赤くしていたんですよ。顔を手で抑えて、足をバタバタさせて何か言ってました。……きっと、笹倉さんから言われたその言葉が嬉しかったのだと思いますよ」

 何を自分が言ったのか、思い出した笹倉さんはあの時の松永さんと同じ顔をした。

「笹倉さん、松永さんは元気にしていますよ」

 笹倉さんはテーブルの上の薔薇を見て、頬を緩ませていた。
< 49 / 232 >

この作品をシェア

pagetop