ファーレンハイト/Fahrenheit

#03 三人の恋路

 十一月十七日 午前十一時三十六分

 バルコニーに面した窓から差し込む陽の光が室内を明るく照らしている。その光を受けるようにして椅子に座って、いつもの資料に目を通していると玄関が開いた音がした。

「お疲れ様です……あれ、松永さんだけですか?」

 連絡所兼仮眠室のマンションに戻った加藤奈緒がリビングの扉を開けて部屋を見回している。
 加藤はグレーの髪色から濃い目のブラウンになっていた。前に入れたハイライトとインナーカラーの部分はそのうち色が抜けていくのだろう。
 ハーフアップにした髪型は毛先が揺れていて、パールのピアスをしている。ギャルから『大人可愛い』のスタイルになった加藤は、どんな格好をしても似合う女性捜査員だ。

「ああ、お疲れ。一人だよ。相澤は?」
「官舎です。夕方には戻ります」

 加藤は、部屋に入ってから俺を視界に入れて見ているようで見ていない目の動きを止めた。俺は椅子の背もたれに身体を預けて右脚を左脚の膝に乗せているが、それを窘めるような目線で真っ直ぐ俺を見据えて、少し首を傾げた。

「体調がすぐれないご様子ですが」
「正解。さすがだね……って、見れば分かるか。ふふっ」
「睡眠不足でしょうか」
「あー、それもあるけど、ほら夏は……大変だったでしょう? そのツケを今払ってる感じだよ」
「あー……なるほど」

 テーブルに来た加藤は俺の斜向かいに座った。視界の右上方にいる加藤を見ながらも資料を読む。
 会議でギャルメイクだった時は思わず二度見したが、今日のメイクは桜色に上気した肌のような艶のあるメイクで、柔らかな女性らしさのあるものだ。
 資料をテーブルに置き、腕を組んで加藤の顔を見た。

「相澤もそうだったけど、あいつはどう? 元気にしてるの?」
「ゴリラはいつも元気です」
「ふふっ……そうだね」

 加藤は会議の時より雰囲気が少し変わっていた。それは髪型やメイクのせいではない。何かは分からないが、変わったのは事実だ。

「相澤と仕事するのは二年ぶりだよね? どう? 毎日幸せ?」
「それはどのような意味でしょうか」
「ペア組んでる間にどうにかしちゃいなよ」
「松永さんは何のお話をされているのでしょうか」

 加藤はずっと俺の目を見て話しているが、口元に笑みを浮かべながらも目が全く動かない。

 ――どうしよう。わかんない。

「もおー! わかんないよ! 相澤と何かあったんでしょー? 教えてよー!」
「何の事ですか?」
「ふふっ……いいよ、相澤に聞く」

 この加藤は信頼出来る捜査員だ。秘密があっても加藤は表情ひとつ変えずにのらりくらりと躱してしまう。

「今のうちにシャワー浴びますね。……ああ、野川はどちらへ?」
「コンビニだよ。ちょうど行き違いだったと思うけど、会わなかった?」
「姿が見えたので隠れました」
「ふはっ! なんでだよ」
「……野川はどうですか?」
「仕事はよくやってるよ」

 言外の意味を含めたが、それに気づいた加藤は睨めるような視線を送ってきた。それに俺は目を大きく開いて歯を見せた笑顔であしらう。

「……お疲れなのは野川も原因の一部でもある、と?」
「だってー! すっごいポンコツなんだよ!?」
「あははっ」

 野川が原因の疲れなど微々たる……いや、二割程だが、大きい原因は……睡眠不足の原因はそうじゃない。それを彼女に見透かされても、彼女は何も言わないし何もしない。だが、俺は知られたくない。自分でどうにかしないといけない。

 俺は座り直して肘をテーブルにつき、組んだ指に顎を乗せた。加藤を真っ直ぐ見据えて声音を変えて話しかける。

「なあ加藤、シャワーは野川が帰って来てからにしな」
「何故でしょうか?」
「今、俺一人。良くない」
「松永さん以外でも、他の男性捜査員が一人の時にもシャワーを使う事はあります。問題は無いかと思いますが」
「俺には、ある」
「と申しますと?」
「俺にとっての奈緒ちゃんは相澤からの預かり物になった、から」

 加藤の眼球がほんの数ミリ動いた。
 ここまで感情を露わにするのはあの日以来。加藤の相澤に対する恋心を指摘した日以来だ。

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