ファーレンハイト/Fahrenheit

#04 欲しいもの

 十一月二十一日 午後九時二十分

 駅を出て歩き始めてから二十分以上経つだろうか。俺はただ黙々と優衣香のマンションを目指して歩いていた。道の両脇にある家の窓は暗く閉ざされていて、時折、外灯だけが夜道を照らしている。冷たい風が頬に触れ、思わず身震いしそうになった時、俺は路地を曲がり路駐してあるワンボックスカーに身を隠した。

 ――ここで、終わらせる。

 足音が近づいてくる。

 足音が通り過ぎる。


 俺を見失った事に気付いて元の道に戻ろうとその足音の主が振り返った瞬間、俺は車の影から出て立ち塞がった。

「こんばんは、お嬢さん」

 立ち塞がる俺を見上げているのは野川里奈だ。逃げる事も出来ず身体が硬直している。

 官舎に戻ると言ってマンションを出た後、すぐに野川の尾行に気づいた。
 電車に乗り、官舎の最寄駅がある路線の乗換駅で俺が降りなかった時、野川は誰かに連絡していた。おそらく米田だろう。俺が官舎に戻ればお役御免だったのかも知れないが、俺は優衣香のマンションの最寄駅で降りた。そこでは連絡をしていなかったから、『松永の女のマンションの最寄駅』を事前に教えられていたのだろう。
 駅を出て、優衣香のマンションに向かうフリをしながらどこで野川を捕獲するか思案していた。同時に、相澤に連絡して公用車で迎えに来るように手配もした。

「相澤と加藤が迎えに来るからね」

 恐怖に身を竦ませる野川は、俺を見上げたまま何も言わなかった。口を開けるが声が出ないようだ。目には大粒の涙がこぼれ落ちてきた。

「あのね、俺は、怒ってないよ。大丈夫だよ。加藤がすぐ来るからね」

 その言葉を聞いて唇を噛み締めたが、涙は止まらない。ハンカチを手渡すが、手も動かせられないようだ。仕方なく俺は野川の涙をハンカチで拭ってやった。

「お前はよくやってるよ。お前は勉強して、出世しろ。偉くなって、こんな事を若手にやらせるクズを片っ端から潰していけ。お前なら、出来る」

 ◇

 ヘッドライトが道を照らして、消えた。

 野川の涙が止まる頃、後ろに車が止まった。
 ドアを閉める音が二回。
 走る寄る足音は二人。

「お待たせしました」

 相澤のその声より早く加藤は野川を拘束していた。加藤は目礼をしただけで野川を車に連れて行く。そこで初めて野川が嗚咽を漏らした。しゃくりあげるその声は遠ざかり、ドアを閉める音が聞こえた。

「松永さん、この後……」
「帰る」

 今日は官舎に戻るつもりでいた。野川の尾行に気づいたから仕方なく優衣香のマンションの近くにいるだけで、優衣香に会う気は最初から無い。

「えっ……でも……」
「なに?」
「いや、せっかく近くまで来たのに……」
「時間遅いよ? 連絡してないし」

 そうですかと言った相澤だが、せっかくだから連絡してみれば良いと言う。「そうだな」と答えると笑顔を見せた相澤へ野川の事を指示した。

「ねえ、裕くん。野川に優しくしちゃだめだよ、いい?」

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