ファーレンハイト/Fahrenheit
 相澤とペアになって一週間で何かあったのだろう。彼女にとっては特別な事が。相澤にとってはどうかは知らないが。

「奈緒ちゃん顔に出てる」
「…………」
「奈緒ちゃん、長かったね」

 俺と加藤の共通点は、同じ相手をずっと想い続けている事だ。彼女は優衣香の存在を知らないが、何も言わないだけで気配くらいは察しているだろう。
 折に触れて相澤に付き合うのは誰でも良いが結婚は加藤としろと言ってある。それがどんな意味なのか全く考えた事も無い様子だが、やっとその意味を知ったのだろう。

 長い沈黙の後で、加藤は口を開いた。

「先も長いと思います」

 やっぱり彼女は何かを伝えたけど、相澤は分かってないんだな。あのゴリラめ。

「そうか。なら俺はこれから何をすればいい?」
「何もなさらずにいてください」
「えー! 便所スリッパでゴリラの頭を叩きたいんですけどー!」
「あははっ。それはお好きなように」

 そこにいつもの大声が響いた。「ただいま帰りました」と野川の声が玄関から聞こえる。

「もう一人、便所スリッパで頭叩きたい奴が帰ってきた」
「あははっ」

 リビングのドアを開けた野川は加藤の姿を見て目を見開いた。加藤は座ったまま野川に向き直し両手を挙げて野川を出迎えている。
 そこへ野川は飛び込んで加藤は野川の背中を抱いた。二人は笑顔になって顔を寄せている。
 野川が「炭酸水が無くなりそうだったから買いに行ったんです」と加藤に言うと、加藤は「えらいえらいありがとう」と野川の頭を撫でた。

 野川も不安だろう。ペアが俺だし、米田からは何かを命令されている。だがポンコツとは言え仕事はよくやっている。真面目に倦む事無く取り組んでいる。野川が心折れずにやれているのは加藤の的確なフォローがあるからだ。
 加藤の後輩を思いやる気持ちを有難く思うが、この有能な捜査員は夢が叶ったら警察官を辞めるだろう。

『ゴリラはいつになったらアイロン掛けが上達するんでしょうね』

 スーツを着る相澤を見て眉根を寄せた加藤が願った自分の未来は、今の自分ではない。
 それだけ愛情深い彼女の気持ちを十六年も気付かなかった相澤はバカだと思うが、そもそも気持ちを気取られないようにしていた加藤がバカだと思う。

 俺が加藤の恋心を指摘した日、加藤はこう言った。

『相澤が結婚したら諦めます』

 と、どっかの誰かと同じ事を言っていた。
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